Interview2 「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」からみえるもの~ 林健太さん

◎プロローグ◎

視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップに初めて参加したのは2012年11月11日。縁あって自治体の市民大学で福祉学を担当することになり、「福祉と芸術が共存する場」をリサーチしていた時に偶然知ったのだと思う。その時‘みんなで’鑑賞したのは、横浜美術館で開催中だった「光をめぐる表現」展。後から知ったのだが、この活動自体が同年6月から始まったものだったので、ほぼ立ち上げから今日までのワークショップの変遷(成長)を目撃してきたことになる。ある時は参加者として内側から、ある時は取材者として外側から、何度か足を運び、参加しているうちに、何より自分自身の視点が変わっていくことを実感していた。そして今一度、このワークショップを「内と外」から捉え直そうと、この活動の中心メンバーである林建太さんにお話を伺った。

‘あたりまえ’という関係性

写真:中島佑輔 2011年11月11日横浜美術館「光をめぐる表現」展 みんなで鑑賞中。
写真:中島佑輔 2011年11月11日横浜美術館「光をめぐる表現」展 みんなで鑑賞中。

-まずあらためて、この活動を始めたきっかけをお聞きします。

 もともと在宅ヘルパーなど福祉の仕事をしていたのですが、その後、縁あって視覚障害者と晴眼者が共に働く場に関わりました。その時の同僚たちと休日に美術館に遊びに行くことがあって。最初のうちは、それまで美術館に縁のなかった視覚障害の人たちを案内するという役割もありましたが、彼らと一緒に話をしながら鑑賞をしているうちに、段々と「説明しなければ」という役割から離れて「鑑賞の楽しさ」そのものを感じるようになりました。

―福祉的な’使命感’のようなものから始まったわけではない?

 そうですね。もちろんエイブル・アート・ジャパンのMARの活動は知っていたし、活動を始めるにあたって関係者にもアドバイスを頂きましたが、基本的には「この楽しい感覚って何だろう?もっとみんなで共有したい」という個人的な動機から始まったと思います。

―最初にこのプログラムを提案した美術館の反応はどうでしたか?

 最初に相談した横浜美術館は、それまでにも障害者向けのプログラムの下地があったので快く受け入れられたと感じました。ここで実施するプログラムに他の美術館関係者にも参加してもらったり、最初からかっちりとした内容や構成を考えてスタートしたというよりも、参加者の反応をみながら、声をくみ取りながら、メンバーと共に試行錯誤する中で作っていくような感じでした。だから最初に「バリアフリーの関係性をつくります」という目的ありきではなく、「月1度の実施を継続させること」、「美術をみんなで鑑賞する、その時間を共有すること」を大切にしています。その上で、いろいろな見方を知ることが出来ればよいと思います。でも参加者同志がつながれなくても、それはそれでよいという、緩やかな関係性の中でのワークショップですね。

―だから「視覚障害者と(ともに)つくる」という発想なのですね?

 「サポートする、される」という関係性ではなく、みんなで一緒に鑑賞する時間を持つ。そもそも「’対等’な関係性」という考え方にも、どこか最初から「差」を前提としている上下関係の様に感じます。このワークショップでは対等を目指すというより、お互いに影響し合う場にしたいと思っています。

―「視覚障害者とつくる」というタイトルには、ある種のインパクトもあります。

 企画の段階から色々な人が関わっているということを表したくて、この名前にしました。現在メンバーは6名ですが、みえる/みえないメンバーそれぞれに役割があって、みんながやりがいを持って運営しているという状況です。

―「みえる人、みえない人」が一緒に運営していることの方が自然というか?

 はい、そうです。もちろん、僕が視覚障害者のすべてを理解できていると思わないし、視覚障害をわかった気にならないように普段から気をつけてはいます。その上で「わかりたい」という気持ちは持ち続けているというか。みえる人はこうだ、みえない人はこうだ、と関係性を固定化しないということが大事かなと思います。それはそのまま、このワークショップの在り方と同じです。ただ、ワークショップを運営する上で「参加する’みえない’人たちが置いてきぼりにならない工夫」や全てのひとにとって面白いかどうかについては、メンバー全員でかなり話し合います。

いつでも自然体の林さん。
いつでも自然体の林さん。

―確かに現場を観ていても、メンバーは自分の持ち場を理解して動いていますよね。あまりリーダーシップは取らないようにしていますか?

 普通の組織のあり方と一緒だと思います。強いリーダーシップが必要な場面もありますし。ただ、メンバーみんなが意見を言いやすい場の在り方というのは大事だと思ってます。

 

―ところで、美術の「鑑賞」というと美学的な、いわゆるアカデミックな解釈もあるわけですが、そのあたりはどう捉えていますか?

 僕自身が美術大学の出身ではないですが、知識としては大事だと思っています。でも個人の体験としての鑑賞方法は、もっと沢山あってよいと思います。例えば、先日訪れた沖縄県立美術館では、参加者が美術に詳しい人ばかりではありませんでしたが、とにかく皆さん賑やかでユニークでした(笑)。作品を前にした時の反応は個人の経験やその土地の文化に根ざしていたり、つくづく正解は一つではないのだなと感じました。

―作品の情報についてはどうでしょう?

 情報量のバランスは考えますね。ここは知識習得の場ではなくて、あくまで「時間を共に過ごすこと」を大切にしたいので。それらしい言葉が先行して、つまらないプログラムにならないように。「それ面白い?本当に参加したい?」という参加者の視点をメンバー全員が常に意識しています。

―林さん個人にとっての「鑑賞」とは?

 作品と自分との関係性というか。それまでの自分の内側の既成概念が変わるような体験だと思います。

イラスト/デザイン 進士 遙
イラスト/デザイン 進士 遙

―このワークショップでは、これからも「言葉」のコミュニケーションが基本に?

 僕自身にとって「言葉」でのコミュニケーションがいちばん身近ですし、基本にはなると思います。言葉の使い方だったり、本当に「伝わっているか」と考えたり、よく話そう、よく聞こうとする意識の変化も体験できる。コミュニケーションの本質を自然と意識するようになりますよね。実際に最近は盲学校の先生や生徒と鑑賞する機会もあり、とてもよい経験になりました。

ー教育現場への活用は今後も可能性を感じますね。

 きっと楽しいことが出来そうだと思いますが、子どもたちにとって、学校にとって、ニーズや効果があるかどうかは正直まだわからないですね。少しづつ直接ふれあって、確かめていきたいですね。

―周囲のニーズに応えながら、柔らかに広がっていくワークショップですね。その変化を楽しみながら、私も参加していきたいと思います(ヨコトリももちろん)。

 変化しながらも「軸」の部分は大切にしていきます。今日の軸がブレているようなことがあったら、いつでもご指摘ください(笑)。

―もちろんです(笑)。最後に、このワークショップでの「沈黙」をどう捉えていますか?

 それ自体も大切な情報だと思っています。見えていることを全て言葉にできる訳ではないですから、沈黙は自然なことだと思います。参加したみえない人たちにとっても、作品を前にした人が「うーん、と考え込んでいる」という言葉に詰まっている状況は興味深いし、面白いと。「沈黙」そのものが、作品を想像していく上での手がかりになることもあるようです。だから、この場ではみえる人も「無理に」全てを説明しようとする必要はないと思っています。

2014.8 聴き手:ササマユウコ

2014年8月7日 明治神宮「杜のテラス」にて

〇終了しました ワークショップの様子→

視覚障害者とつくるヨコハマトリエンナーレ 2014鑑賞ツアー(写真上)

 日時 2014年8月23日(土)、9月28日(日)、10月12日(日)

    各11:00~13:00

 場所 横浜美術館、新港ピア   定員 各15名


親子での参加もまた新しい発見が。@横浜美術館2013
親子での参加もまた新しい発見が。@横浜美術館2013


林さんの自然体を前にして「障害」や「福祉」という言葉を使うことには、どこか気恥ずかしさを感じてしまう。その人にとっての「当たり前」を特別視することは、自分の「内」の問題に他ならないと気づくからだ。だから言葉は難しい。そして奥が深い。

 M.シェーファーの「サウンド・エデュケーション」(春秋社)の100の課題には、眼を閉じるプログラムが1割以上も存在する。2013年の音楽教育学会東北地区例会(弘前大学)では、そのうちのいくつかをワークショップで発表させて頂いた。みんなで目を閉じた瞬間に生まれる親近感の不思議。目を閉じると結果的に耳が開かれ、人の出す音(言葉)をよく聴こうとする気づき。目は耳と違って、いつでも自分の意志で閉じられる。まぶた一枚で「内」と「外」が遮断される時、それをつなぐのは耳であり、手であり、音(言葉)であり、そして何より想像力なのだ。この鑑賞ワークショップの醍醐味は、その想像する楽しさを、みんなで分かち合う時間を共有することに他ならない。それこそが芸術のチカラだと、自然と気づかされる体験である。(S)


※この活動を考察し、「視覚障害」を感覚や身体の多様性と捉え直した著書が発売されました。

 

目の見えない人は世界をどう見ているのか(伊藤亜紗著 光文社新書 2015)