【考察レポ・後編】東京芸術劇場ボンクリ「音のない”オンガク”の部屋」

水の波紋を「目できく」ように音楽にした。マリー・シェーファー「miniwanka」エンディングより。
水の波紋を「目できく」ように音楽にした。マリー・シェーファー「miniwanka」エンディングより。

●前編 舞台の鑑賞レポはこちらから→ 
 この
後編では共同演出の雫境さん、無音の”オンガク”映像も担当した牧原依里さんそれぞれに「アーティストの視点」から、筆者が用意した質問にメールで答えて頂きました。何度かやりとりが生じた舞台に関する質問は、雫境さんの欄にまとめています。あらかじめご了承ください。


ボンクリ「音のない”オンガク”の部屋」

「はじまりについて」
出演:佐沢静枝、那須映里、西脇将伍

共同演出:雫境、牧原依里

主催:文化庁、公益財団法人東京都歴史文化財団

企画制作:国益財団法人東京都歴史文化財団東京芸術劇場
ボンクリ・フェス2021 Born Creative Festival 2021

対話の時間

雫境さんへの質問

質問①この作品をつくるにあたってオンガクの「楽譜」にあたるものは作成しましたか?

 出演者と「聾者の”オンガク”の歴史」をイメージして共有し、全体のシーンの流れをつくりました。
 具体的には以下の通りです。
・シーン:椅子に座った人、足で床を鳴らす
 ①振動やリズム(人を呼ぶ、肩をたたくなど)

 ②指差し(意味になる行為、言語以前)

 ③言語誕生「手話」で会話をする 

 ④サインポエム(牧原さんの映像からイメージ。映像内容は雨、水たまりの水紋、街など)

 ⑤言語から非言語へ 

 ⑥ミニマム

 ⑦原初的(根源的)

・シーン:椅子に座り、沈黙。
※⑥の「ミニマム」とは、非言語の手話からさらに意味を削ぎ落し、パラドック的にさまざまな解釈が生まれるような動きのこと。

 

質問②声質にあたる「手質」で出演者を選んだということで、どのような「質感」を大切にしましたか?

 ネイティブサイナー(日本手話が第一言語)であることと、手話、顔などの動き方と”素材”に魅力的なものがある人です。また”オンガク”の理解度が高そうな感じ/雰囲気の人にお願いしました。トークで話した「間/ま」については練習すれば出来ると思っていたので、初めから出来る人に限定したわけではありません。

 

質問③今回は身体性や関係性にフォーカスしたり、風景を身体で写し取るオンガクでしたが、ここから例えば「光」「色」などの外的/美術的/視覚的な要素が増えていくのか、それともさらに身体の内側に向かうようなオンガクになるのか。どちらだと感じましたか?(現時点で)
 
今回は身体の純粋性をみせようと考えました。総合芸術的に考えると、照明、舞台美術を練りこんだり、反対に裸舞台(何もない舞台)で勝負したり、今後は観客にみせることを意識する/しないの両方のが出てくると思います。自分の内側/外側に向かうオンガクの「ベクトルのバランス」が重要になってくるのではと感じます。

 

質問④雨や水のイメージがあったのは、事前のオンライン対話でサウンドスケープの原点が「水」にあるという話から生まれたのか、それともすでに対話以前からあったイメージでしょうか?どちらにしても前日の台風の大雨の記憶、リアルな世界とオンガクがリンクする偶然の面白さを感じました。この作品のテーマに「水」がありましたか?

 稽古の前にテーマやイメージは特に決めずに、「台本」的なものも用意していませんでした。創作・稽古中に出演者がその時に身近に感じていることから取り組んだ方がやりやすいかなと思って進めていく中で、外が曇りだったり雨だったり、、そういう心情が自然に出てきただけです。ましてや前日に台風が来るとは思わなかった(笑)。
 5年前のアップリンクで田口ランディさんとのトークでも水の循環について話したし、それよりも前に舞踏訓練でもよく課題にしていました。人体の60%は水で出来ていると言いますし。水は共振しやすい性質を持つから、人間もそうなのかもしれないと思っています。いつか観たいのがタルコフスキーの『惑星ソラリス』で、海のイメージが気になっています。関係あるのかは観てみないとわかりませんが(笑)。

 

質問⑤肩をたたくオンガクについて、もう少し詳しく。あのシーンは即興ということで、午前と午後で変化はありましたか?

 少しのきっかけと動作、方向性などは決めましたが、即興がメインでした。関係性のリアルを大事にしつつ、その「緊張や弛緩」、緩急、強弱などでオンガク性と質を高めていこうと考えました。午前の方が緊張感が高く、午後は慣れてきたこともあって、方式のように固まりそうな感じがあったかもしれません。もし3回以上やったら『出来上がりつつある型を一旦忘れて』とダメ出ししたかもしれません。

 

質問⑥緊張と弛緩は、松崎丈(宮城教育大学)さんが論文で書かれていましたが、聾者が電線のメリハリにオンガクを感じるのとも通じますし、音のある音楽だと旋律やリズムそのものの緩急と共に音と音のあいだに生まれる「余白」の質感かなと思います。聾者/聴者ともに「余白」は奏でられますね。

 「余白」は私個人的に一番好きなオンガクです!舞踏の影響もあるけれど。でもその「余白」の前後が無ければ難しいです。何もないところから突然「余白」が出せるような表現が欲しいし、出せる人がいたらひれ伏します(笑)。

 ※牧原さん 「余白の美しさ、まさにそうですね。沈黙のためにオンガク/音楽があるといっても過言ではないです」。

 

質問⑦音のない”オンガク”の「終わり方」について。聾者が「終わり/沈黙」を感じるのは「身体の動きが止まった時」「光が消えた時」のどちらでしょう(今回の場合)。

 聾者の場合、個人的な感性によって違うと思います。身体を止めてオンガクを終わらせることは、高い技術がないと難しいです。身体の動きを止めた後が問題で、どう所作していくかによって止まった身体の意味が変わります。「光が消える」のはわかりやすいので万人受けではあります。フェードアウトしながら重低音が鳴り響いていたら、聾者は「オンガクの終わり」が感じやすいと思います。


・牧原依里さんへの質問

(無音のオンガク)の映像と舞台制作の違いも含めて感想や補足解説をお願いします。

 映像と生身のパフォーマンスですが、出演者によってどちらが得意かは分かれる印象でした。映像の方がオンガクが伝わる人、舞台の方が伝わる人がいました。手の動き方が限定的な人は映像向き、体幹がしっかりしてブレが少ない人は舞台向き。それぞれの身体の使い方やあり方が(オンガクに)影響を及ぼしているように思いました。
 映像では映像言語も加わり、編集によって生まれるオンガクもあります。舞台ではそれができないので、場面の切り替えをどうするかが難しかったです。舞台に慣れている雫境さんがいろいろと提案してくださって、どうにか乗り切ることが出来ました。舞台だと照明で場面切り替えもできたと思いますが、今回は(会場がギャラリーで)照明が使えなかったのもあり、主に演者の身体メインで考えました。


筆者まとめ(聴者・音楽家)

「音」と「光」、「きく」と「みる」
 前述の質問⑦に対して、雫境さんが「音のないオンガク」の終わり方で提示した「光をフェードアウトしながら重低音を鳴り響かせる(=空気をふるわせる)」感覚は、聴者にとっては「音を徐々に小さくして終わらせる」感覚だと思います。ですから「暗闇で重低音が鳴り響く」世界の印象を聴者の文化に引き寄せて感じ取ると、聾者の制作意図とは正反対の受け止め方になる可能性があります。前回もお話したように、目の前で起きている現象は同じでも聾者と聴者ではそもそもの動機や意図が違う場合があるのです。
 聾者の文化にとって「光」は「音」のような役割もあります。彼らの舞台では演出上の照明効果だけでなく、前編でご紹介した足で床を踏み鳴らす「ふるえ」のように、光が「合図/きっかけ」にも使われるのです。近年では「ライトの明滅」が開演ベルとして使われることも珍しくありません。スポットライトやペンライト等の「光」は聾者の舞台にとっては「マイク/声の替わり」です。聾者の「知覚(世界の捉え方)」を知り、彼らに合わせた環境を整えることも共生の視点からは大事なことです。ただし完璧な環境や条件が良い作品を生むとも限らないのが芸術の面白さ、また奥深さでもあります。今回は照明の使えないギャラリーに舞台を設置したことで、作り手も受け手も聾者の身体と向き合わざるを得ない状況になりました。そして結果的に雫境さんの舞踏家としての経験値が活かされ、牧原さんの映像に触発された「はじまりのオンガク」にふさわしい身体の内側から引き出された作品となりました。
 本来は日本手話の文法やろう文化を正しく理解することが理想的ですが、これは「解釈/反解釈」という芸術批評の根本にも関わるので難しい問題です。このオンガクが何を目的に作られ、作者が何を意図したかによって鑑賞方法が違ってくる。今回は雫境さんが質問①の中で「ミニマム=さまざまな解釈ができるように」演出されたということで、このオンガクが「芸術の時間」だということがわかります。作品には先入観を持たずに、まっさらな心で「きく」態度が求められているのです。そこから「光」の例のような異文化理解や社会共生という「次の視点」が結果的に見えてくる。芸術が先か、社会が先か。今回の場合は、雫境さんと牧原さんはオンガクそのものに純粋に集中する方向をとりました。

 

「音のない”オンガク”」を「きく」ということ
 いずれにしても、聴者の現代音楽フェス「ボンクリ」に聾者のオンガクが提示されたことの意義はとても大きいと感じています。音楽史の文脈としても、また社会共生を考える上でも、彼らの小さなオンガクが投げかけた「問い」は様々に波紋をひろげ、オンガクそのものの世界を静かに震わせ、そして拡張していくでしょう。
 聴者のすぐ傍らにある聾者の世界はいつでも豊かに鳴り響いています。音に特化した「聴者の音楽」は彼らの世界から最も遠い存在と感じるかもしれませんが、両者の世界もまた響き合っているのです。音のない”オンガク”が「きこえる」か否かは、実は聾者/聴者であることとは違う次元の話かもしれません。大切なのは「音楽とはこうである」という思い込みを捨てて、目の前で鳴り響いている聾者の身体のオンガクを「目できく、耳でみる」こと。知覚を捉え直し、全身をひらいて「水」のように響き合うことが出来るかどうかです。
 先日のオンラインセミナーでもお話しましたが、8歳で片方の目を失い10代で画家の道を諦めたカナダの作曲家R.M.シェーファーは、自分の知覚が発見した”鳴り響く森羅万象”に「サウンド(きく)スケープ(みる)」という名前を付けました。それはいつも身近にあったカナダの湖、「水」から生まれたとシェーファーは記しています。本文の冒頭にある楽譜は水の波紋のように終わる(広がる)シェーファーの初期のオンガクです。彼は耳で絵を描くように楽譜を書き、響き合う世界を音に変え、社会にもつながる音楽家としての生涯を全うしました。
 今回の「音のない”オンガク”」は、聾者が身体性をウチに掘り下げて提示した世界です。ここからこの世界に「光」や「色」といった外側の要素が加わるのか、何もない舞台のままさらに身体性が掘り下げられていくのか。このウチとソトをめぐる思考のプロセスは、聾/聴を越えてすべての芸術に共通する本質的なテーマだと思います。芸術と社会、その作品の根幹を読み解くことが大切です。


筆者:ササマユウコ(音楽家・コネクト代表)
1964年東京生まれ。東日本大震災を機にサウンドスケープを耳の哲学として、「音楽とは何か」を問う活動を展開中。「聾CODA聴 対話の時間」「即興カフェ」「空耳図書館のおんがくしつ」プロデュースなど。町田市生涯学習部まちだ市民大学企画・運営(2011~2014)、芸術教育デザイン室CONNECT/コネクト代表(2014~)。都立国立高校、上智大学文学部教育学科卒、弘前大学大学院今田匡彦研究室サウンドスケープ研究(2011~2013)。2000年代の作品はN.Y.より72ヵ国で配信中。