GOU TATEISHI個展『みえてる、みえてないのあいだ』を観て

 去る4月5日、上野Y’sArtで開催されたGOU TATEISHI個展『みえてる、みえてないのあいだ』に伺いました。
 GOU TATEISHIこと立石剛さんは2016年に開催された東京大学駒場博物館『境界線を引く⇔越える』の会場BGMを担当したアーティストです。そしてその時に作られた研究室の音風景コラージュをきっかけに、現在もサウンドスケープをめぐる対話を続けています。このコネクト通信でも何度かご紹介していますが、今回は2020年の冬、コロナ時代直前の相模原の福祉施設で実施したワークショップ展示をご紹介して以来、まさに2年ぶりの再会でした。

 今回の展示もまた、音楽と美術、モノとオトの”間 あわい”を探る立石さんらしい静謐さを内包した作品が並びました。今回興味深かったのはタイトルが「みえる、みえない」ではなく、「みえ”て”る、みえ”て”ない」と「て」が置かれていることでした。この”て”が入ることによって「みる」は「みている」行為に、つまり鑑賞する「私の知覚」が焦点となりました。例えば、目の前で「止まっているようにみえている」世界が、実は静かに動いていることが私には「みえてない」。そのことに気づかされるのでした。目の前の作品たちは「世界との関り方」を問いかける”装置”でもあったのです。

 そもそも「みえてる、みえてない」とは何でしょう。私の目はモノだけではなく、そこに付随するコト(現象)も「みえてる」と感知する。目だけではなく、全身で感じ取ることができるのです。絹糸から生まれては落ちる水滴、蝶の羽のように空気が揺らす薄紙、時間が経つとはらはらと舞う白い三角形。。一瞬では気づかない「動く現象」が起きている時間の連続を切り取った、その瞬間に立ち会うことが出来るか、何よりも気づけるかどうか。
  下に落ちた水滴はやがて蒸発し跡形も残さない。薄紙は何事もなかったように動きを止め元に戻ります。しかし床の上に落ちた白い三角形だけは確かにそこで起きた現象の記録、時間の足跡を残しています。その三角形が落ちる瞬間は「みえてなかった」としても、そこで起こった時間の跡は「みえて」いるのです。雨露離(うろり)やおとづれ、作品につけられた名前の由来に思いを馳せながら、一見無関係に展示されている「丸三角四角 〇△▢」で構成された作品たちが小さな空間で響き合う森羅万象だと気づきます。「みえてる/みえてない」のあいだにあるのは、自分にとっては「きく世界」だとも思います。
 なぜなら、この会場では(みえてない)世界が(きこえる)ことに気づくからです。作品が動くことで立ち現れる微かな音に全神経を集中するとき、その耳の集中とは反対に全身をひらくと窓の遠くからきこえる踏切の音、通りを走る車の音・・・この静かな小宇宙の外の音風景、「みえてない」時間の移ろいがきこえてきます。

 立石さんの解説つきで鑑賞した後に会場の外に出ると、「みえてない場所」が見えるレンズの箱を手渡されました。それを古いカメラのように上から覗き込みながら、会場の入った古いビルを屋上まで歩いてみました。ふたつのうち、ひとつの箱からは立石さんのささやくような声が使われた音作品が「きこえて」きます。
 これは聴覚と視覚をつなぐ実験ですが、箱の中に映し出された世界は自分の可視域とは違う、その「ズレ」を感じる時間の体験でもありました。しかしレンズの中の「異世界」は確かに自分を取り巻くリアルである。心許なくても前に進めたのは視覚ではなく、箱の中からきこえる立石さんの声が水先案内人のように存在していたからだと思います。例えばこの箱が、バーチャルな空間や見知らぬ声を映し出したスマホの画面だったとしたら、私は心許なくて前には進めなかったでしょう。
 古い階段をどんどん前に進んでいく。その先にはまるで夢のような屋上の風景がありました。

たどり着いた屋上が夢のような異空間だった。リアルとは何か。
たどり着いた屋上が夢のような異空間だった。リアルとは何か。

 あらためて『みえてる、みえてないのあいだ』にいるのは誰かと言えば、それは「私」に他なりません。私が目を閉じても、目を逸らしていても、最初から気づかなくても、世界は常に時間とともに移ろいながら、確かにそこに「在る」のです。そして今まさに「みている」のは目だけではありません。耳や手、全身で気配を感じ取ることも同義の場合があるのです。
 私個人は、立石さんが”みている”世界”に触れるときはいつも、自分のいちばん奥にあるとても静かな場所が共振するような感覚になります。東大駒場博物館の会場で初めてサウンドスケープをきいた時もそうでした。その時、私の何が共振したのでしょう。それを言葉にするのはとても難しいですが、おそらくその時に「みる/きく、聴覚と視覚」がひとつになって世界の瞬間に触れるような感覚が起きたのだと思います。それは例えば、そよ風に揺れる木々の葉が人知れず音を出して震えているのを「みえた、きこえた」時のような感覚です。これを「共感」と言い換えてもいいのかもしれません。
 この2年のコロナ禍では、人と人が共感できる場が大きく減ってしまいました。しかし、はたしてこれは不幸な出来事だったでしょうか。この間にもアーティストはそれぞれに深く自分の世界に潜り、こうしてまた水面に顔を出した時には、再会の喜びとともに自己と他者が「同じ場に身を置くこと」の意味にあらためて気づくのです。それは決して悪いことばかりではないはずです。人の心の奥底にある変わらない場所。どんな時間を経験しても変わらない芸術があることを確信できるのですから。
 そこに壮大な作品は必要ありません。一本の絹糸から滴るひと粒の水、そこに生まれる透明な音を全身でみよう、きこうとする私の意識が大切なのです。(サ)


会場で配布された「音」。個展の記憶が想起される。
会場で配布された「音」。個展の記憶が想起される。

○以下、ご本人の紹介文より。

 上野の「Y’s ARTs【UENO】」にて立石剛(Gou Tateishi)個展「みえてる、みえてないのあいだ」を開催します。 立石は音楽家としての活動の後、様々な事物を音で繋ぐことを模索するアートユニットejeを結成(第16回岡本太郎現代芸術賞特別賞)、2017年より個人で活動を開始。「音楽」がもたらす「関係性」に着目し、独自の音楽観によって作品を制作してきました。

 本展では、「見えているもの」と「見えていないもの」の「間」をテーマとし、それ自体には意味のないものが、なにかと関係を結ぶことで現れるものに注目しました。 音楽家ならではの視点で捉えたインスタレーションが展示されます。

○開催期間 4月1日~5日 →終了しました

Y’s ARTs【UENO】

東京都台東区東上野4丁目13-9

 

ROUTE89 BLDG.3F


雑記; この2年間を振り返ると、ソーシャル・ディスタンスが確保された予約制の美術館以外には、往復路の市中感染の懸念から足を運べなかった展示も多々ありました。また『場』を開催することも(コネクトの活動も含めて)中止や延期が相次ぎました。
 「個の表現の場」は大幅に消えてしまったように”みえた”時期もありましたが、深く潜っていた水鳥たちが水面に顔を出すように、この春あたりから少しづつ復活し始めています。そうは言っても自身の体調や同居する家族の状況等、抱えている課題は人それぞれだと思います。すぐに活動に移せる人も、まだ様子見の人もいるでしょう。それぞれの適切な時期と場所は必ず巡ってくるはずですから、焦らずに「継続可能なかたち」を模索し続けていくことが大切だなと思いました。水面下に潜らなければ「みえない」世界もあるはずです。

 不忍池ではまだ残る桜の下で花見をする人たちが点在していました。ハラハラと散る桜の花びらに、いま観たばかりの立石さんの作品世界が重なりました。


筆者:ササマユウコ
3.11を機にサウンドスケープを「耳の哲学」として芸術を問う場をつくる音楽家。
芸術教育デザイン室CONNECT/コネクト代表。即興カフェ、空耳図書館のおんがくしつ、聾CODA聴プロデュース等。アートミーツケア学会、日本音楽即興学会、日本音楽教育学会会員。