第21回定期コンサート『新倉壮朗の世界』(和光大学ポプリホール鶴川)を聴いて

 9月9日に和光大学ポプリホール鶴川で開催された新倉壮朗さんの定期コンサートに伺いました。

 壮朗さんのオンガクとの出会いは、今から10年程前に大友良英さんのWS(岩波書店主催)で聴いたパーカッションに圧倒されたのがきっかけです。まだ少年のようなあどけなさが残る姿で、ドンピシャりと空気にハマるリズムを奏でていました。その後、偶然にも地元かつ共通の知人が多く関わるミュージシャンだと知り、時おり演奏を聴かせて頂いています。偶然にもコネクトにも時々登場するコヒロコタロウの小日山拓也さん、石橋鼓太郎さんもスタッフで長年関わっています。

 特にここ数年の壮朗さんは「誰にも似ていないピアノ」を奏でる時間が印象的です。そして彼も例外ではなくコロナ禍で他者と隔絶された「独りの時間」によってオンガク性を進化/深化させ、この日も1音目から何とも美しい響き(和声)を奏でていました。
  少し専門的になりますが、その和声は西洋音楽のロジックのようでいて、やはり誰にも似ていない「タケオさんのオンガク」なのです。今まで半世紀近くピアノを弾いて聴いてきましたが未聴感があります。予想がつかない展開やパフォーマンスの面白さもありますが、それ以上に何よりもまず音選びが「唯一無二」なのです。ピアノ音楽の可能性そのものが広がる感覚です。壮朗さんにとっては打楽器の延長にあったはずのピアノから、楽器本来の豊かな和声が鳴り響く。共演の梅津和時さんとの「かけひき」もスリリングで、1部の1曲目から聴きごたえのある即興セッションが生まれていきました。

 大地から湧き出る泉のような歌声やサービス精神あふれるボイスパフォーマンスの2部、そして身体に深く染み込んだアフリカン・パーカッションの安定感が魅せる3部。対照的に1部はむしろ思慮深く鍵盤から音を選び出し、響きと対話する姿が印象的でした。何よりも降りてくるインスピレーションをキャッチして、内発的に指先から鍵盤へとオンガクを伝える瞬間、そこから生まれる音世界に心を震わせるような瞬間には同じピアノ弾きとして共感もありました。その音の洪水の後に生まれる長い沈黙には頭の中で鳴り響く森羅万象の余韻に壮朗さん自身が耳を澄ましているようにも思えました。それは、音のないオンガクです。

 昨年に続き、マスクをした客席はレスポンス(特に笑顔)が見えず、壮朗さんはやりづらさも感じているだろうと思いました。しかし長年の舞台経験から、プロフェッショナル精神をもってステージを引き受けて、会場を盛り上げていく。時おりこぼれる満足そうな笑顔は決して自己満足ではなく、思い描くオンガクに近づけた喜びだと思いました。ひとりのアーティストのワーク・イン・プログレスに立ち会った時に感じる、クリエイションを共有できたような幸せな瞬間でした。同時に共演者たちの包容力、非言語コミュニケーションで深められた壮朗さんとの信頼関係も印象的でした。オンガクの真髄はやはり非言語の世界にあることを実感します。その世界に到達するための楽譜を含めた音楽言語なのです
  壮朗さんのオンガクの魅力は透明な音が震わせる時空に身を置いた時に実感できます。機会がありましたら、是非いちど体験してみてください。

 
追記:
 美術の「アール・ブリュット(生の芸術)」に相当する世界が音楽では未だ出現しません(ミュージック・ブリュットという造語は一部で見かけますが)。それはなぜでしょうか。理由についての考察はまた別途、ここから2年をかけて筆者の経験を振り返りながら書き重ねていきたいと思います。
 そもそも音楽と音楽でないものの違いとは何か。まず何より「音」は必須条件ではないと、例えば「ろう者のオンガク」と出会った経験から考えます。さらに音楽的知性言語的知性は同じものではないという経験もカプカプや壮朗さんの音楽から実感しています。
 そもそも世界の線引きは誰がするのか。つまるところ音楽とは何か、何がオンガクか。3.11を機に続く自らの「問い」に、もう一度立ち返りたいと思います。(サ)。


筆者:ササマユウコ(音楽家、芸術教育デザイン室CONNECT代表)
 2000年代の音楽活動を経て、3.11を機にサウンドスケープ論を「耳の哲学」として音楽を問う思考実験や対話の場をつくっている。即興カフェ、聾CODA聴対話の時間、空耳図書館、カプカプ音担当(新井英夫WS)、執筆、レクチャーなど。日本音楽教育学会査読付きジャーナルあり。日本音楽即興学会、アートミーツケア学会会員。