【記録②】福祉と舞台芸術をつなぐファシリテーター・コーディネーター養成講座【団地ピロティ編】

①車椅子にのるとカプカプ・メンバーと目線が揃う。奥に見えるのが商店街(左・新井英夫)
①車椅子にのるとカプカプ・メンバーと目線が揃う。奥に見えるのが商店街(左・新井英夫)

第1回オンライン講座の記録はこちら→


実施日:2022年11月10日(木)

第2回のテーマ:はんなり、やんわり、ゆっくり、声、呼吸

場所:団地のピロティ

【はじめに】当初は雨が心配されましたが天候にも恵まれ、先週10日からいよいよカプカプ現地での実践講座が始まりました。
 日々変化する新井さんの体調を考慮し、対面/ハイブリッドどちらの方法を取るかは当日朝7時まで保留でしたので、現場は臨機応変に対応することが求められました。これは今回の場に限らず、多様な心身を抱えた福祉の現場では実はよくあることだと思います。前回のオンライン会議でも話題に出ましたが、福祉のワークショップでは「予定通り」であることが必ずしも正解ではない。今回の場合は会議で決まったキーワード「はんなり」を枠組みに即興性や創造性を大切にした場が編まれていきます。だから事前に準備したモノやオトは「場の状況」に応じて取捨選択されます。ちなみにこの日は交通事情で講師3名(新井、板坂、小日山)の到着が遅れ、最初に予定されたオープニングの講師パフォーマンスを始め、いくつかのプログラムが割愛・変更されました。反対に自己紹介やなべなべ、ヨガや声を使った呼吸法など、「起承転結」のトリガーとなるルーティン・プログラムは「いつも通り」を守り、その柱をつなぐように即興的で美しい「モノコトヒト」の時間が編まれていきます。
 という訳で、いつも以上に予定外の展開でしたので、待つ時間を急遽「導入部」として組み立てる必要がありました。先に現地入りしたササマから、今回から新井さんが電動車椅子を使用すること、このワークショップでの「音」の役割について説明をさせて頂き、ピロティに用意されていた「シャボン玉セット」を使ってカプカプーズと共に身体や関係性を「ほぐす」時間を過ごして頂きました。この日のカプカプーズは自らが「講師役」を担う自負もあり、最初は少し緊張がみられた受講生たちをすんなりと「場」に迎え入れてくれました。これは日頃から「接客」を得意としているカプカプ・メンバーならでの”おもてなし”です。結果的にこの時間があったことで、自然な流れの中で午前のプログラムが始まっていきました。
 ちなみにシャボン玉の時に弾いていたピアノは「伴奏」のように音で身体を鼓舞する目的ではなく、一定のリズムやミニマルな音を紡ぎながらピロティ全体の音風景を緩やかに整えていく役割を担っていました。

①2022年7月のワークショップ準備風景
①2022年7月のワークショップ準備風景

【非日常と日常をつなぐ:団地のピロティと車椅子】  

 今回の現場となったピロティは、カプカプのある団地商店街と地続きの吹き抜け空間です。数年前までは茶色を基調としたタイル壁でしたが、白く塗り替えられたことでシアターのような雰囲気に変りました。2020年以降、コロナ禍でのワークショップでは、奥の壁をスクリーンにしたオンライン活動、壁の手前に幕を置いた影絵等もこころみました。講師が自宅から壁に投影された状態で団地の人たちとオンラインでおしゃべりしたこともありました(なんとも未来的!)。今年は奥行がある空間を「ランウェイ」に見立て、祭りの目玉となった「ファッションショー」の練習も行いました。上階やご近所への配慮として、音量ではなく音響を豊かにする発想をもつと音具の選択肢の幅が広がります。今回は特にカプカプスタッフ&音響担当の千葉さんが良い感じにスピーカーを設置してくれたので、ピアノだけで空間全体を包み込むような音環境をつくることも可能でした。

②合理性だけでなく「美」も感じられる昭和の公団建築
②合理性だけでなく「美」も感じられる昭和の公団建築

 今回から電動車椅子を使用した新井さんがスムーズに動けた理由のひとつに、この団地ならではのバリアフリー建築があります。気づいた方もいらっしゃったと思いますが、カプカプ喫茶前から非常に美しい流線形のなだらかな階段とスロープがこのピロティまで続きます。ゆとりのある空間(余白)が多々みられる昭和の公団ならではの構造が、カプカプの日常はもちろん、この団地で暮らす高齢者の暮らしも支えています。
 車椅子に乗った新井さんはまるでフィギュア・スケーターのように(笑)、可動域が抜群に広がり団地の空間を大きく使えていたことが印象的でした。福祉の場には車椅子が当たり前に存在しますし、福祉用具から身体と空間の関係性を捉え直すと、新たな芸術やワークショップの風景が見えてくるのではないでしょうか。
 ワークショップの休憩時間には実際に新井さんの車椅子をスタッフ間でも試乗してみましたが(写真③)、目線が変ることはもちろん、電動ならではのスピード感や操作性も含めて、新しい発見がたくさんありました(私は少し酔ってしまった)。福祉の場のワークショップを指向するファシリテーターやコーディネーターは一度は体験しておく必要があると思いました。

③新井さんの伝統車椅子を試乗しているカプカプのまほさん。この日のテーマ「はんなり」をたすきがけ。撮影:ササマ
③新井さんの伝統車椅子を試乗しているカプカプのまほさん。この日のテーマ「はんなり」をたすきがけ。撮影:ササマ

 このピロティは、半地下や半野外、日常と非日常が交差する「境界」のような雰囲気もあります。だからこそ感性豊かなカプカプーズの中にはこの空間自体が少し苦手(怖い)なメンバーもいます。新井さんはこの空間に入れないメンバーが自然なかたちで「巻き込まれる」ように、布を使ってピロティの外へとワークショップの場を移動していきました。団地を舞台装置のように使う感覚は、新井さんが経験してきた野外パフォーマンスや即興の経験も生かされていると思います。もちろん、カプカプではワークショップへの参加を強制することは一切ありません。ピロティに入れなかったメンバーは身体ではなく「音」を鳴らしながら遠くから様子をうかがっていましたので、「参加したい」という意思表示があったことを確認してからの行動です。そして思惑通り、最後にはみんなの輪の中に入って楽しそうに身体を動かしていくことができました。
 突然商店街で踊りだす人たちが許容されていく環境は本当に稀だと思いますが、この場が可能になるには25年近い時間をかけて築かれたカプカプと団地商店街の信頼関係が土台にあることは言うまでもありません。

④布の美しい動きは関係性そのもの。撮影:カプカプ福田さん
④布の美しい動きは関係性そのもの。撮影:カプカプ福田さん

【新井さんの視点:場と関係性】
 参加者とつくる内側の輪だけでなく、その外側で何が起きているのか。内と外の関係性を常に俯瞰して「次のこと」を考えているのが新井さんです。それはマニュアルやロジック以上に、新井英夫というアーティストのオリジナリティであることは否めませんが、アーティストが自らの芸術を探求していく中で「最も美しい」と感じるモノコトヒトに瞬時に光を当てる「審美眼」を育んでいくことは経験を積めば可能です。ひとりひとりが違う身体を生きて、実は違う世界を生きている。「正解」を求めないことが正解となる芸術もあるのだと思いました。

【ふりかえり】ワークショップ体験のあとに、カプカプ店内でスタッフと講師による座談会の時間が設けられました。

 新井さんがカプカプのワークショップを引き受けた理由が、カプカプから「作品を作らなくていい」という条件があったからだと話していたことが印象的でした(知らなかった)。同時に励滋さんも指摘していましたが、カプカプのワークショップは「ハレの場」として日常から分断されているのではなく、ここでの経験がカプカプーズの日常へとフィードバックされ、双方向に相乗効果をもたらしているというお話は、まさに最初のシャボン玉の時間で実感したことでもありました。もちろんスタッフの皆さんもメンバーと共にひらかれていきます。

 第1回の基礎講義で紹介されましたが、全国の福祉施設で最も導入されている芸術活動はほぼ「美術」であり、パフォーミングアーツの中では「音楽活動」が断トツでした。。これはおそらく創作活動というよりは、カラオケや伴奏に合わせて既存の楽曲を歌ったり音を出す演奏活動だと思います。もちろんここには「余暇」としての意義は十分にありますが、この音楽を「音/サウンド」に置き換えると活動の内容や領域が音楽領域の外にも広がりますし、励滋さんが言及していた福祉作業所に内在する「訓練」という意識からも解放される時間をつくることが可能です。

 そもそも音楽のルールや楽器は、障害のない人(マジョリティ)を前提としています。美術のアール・ブリュットのように「個」を丸ごと受け入れる発想や仕組みが皆無とは言いませんが、少なくとも西洋音楽のロジックや既成の楽器には残念ながらありません。世界の民族音楽や伝統芸能に触れる学びも有用だと思います。その経験から、学校で習う西洋音楽が地球上にある音楽の正解ではないことも判ってきます。だからこそ自らも重い視覚障害を持っていたカナダの作曲家R.M.シェーファーは美術と音楽をつなぎ、「音楽、サウンドスケープ、社会福祉」という道筋を提示したのだと思います。

  新井さんも「ダンス教育」について同じ問題を指摘していました。これは評価の問題ともつながっていきますが、「合わせる」ことが苦手な存在をどう捉えるか。そもそもカプカプーズの身体機能は車椅子使用者も含めて、本当にひとりひとり違います。10年の時間の中で少しづつ積み重ねられてきた多様な身体が響き合う「場の力」が、本当に運命的だとは思うのですが、日々変化する新井さんの身体さえも自然に受け入れていることで証明されているのです。カプカプの福祉と新井さんの体奏、そしてサウンドスケープの考え方は実は非常に親和性が高いとあらためて実感する日々です。

 以上、今回は音担当ササマの専門性から長くなってしまいましたが、カプカプで繰り広げられている「モノコトヒト」の関係性を知るヒントになると思いますので記録しました。新井一座の土台にあるのは、新井さんの身体芸術(体奏)や野口体操の哲学、団地や商店街や施設という「場」と呼応するパフォーマンス、即興音楽の経験、そしてサウンドスケープの考え方です。今回の助っ人である小日山さんは港区「芝の家」や北千住を拠点としたコミュニティ美術(影絵、手作り楽器など)や即興音楽を、新井さんのパートナーである板坂さんは美術教育が専門ですが身体と呼応するモノで即興的に「場をあそぶ」経験が豊富です。つまりここに集う人たち全員にとって、カプカプは「異文化・異分野交流」の場にもなっています。
 ここから3月まで続く講座の中で、新井さんの病状/身体も未知数で変化していきます。カプカプの福祉の場は、予定調和や合理性にこだわらないからこそ豊かに成立していると言えます。ワークショップの中で安心して予定を取捨選択ができるのは、大きな方向性やテーマを枠組みとして即興セッションのように繰り広げられていくからです。「新井一座」は福祉の場であると同時に常に真剣勝負の場。何よりカプカプ・メンバーたちの想像力や創造性、何年経っても色褪せない関係性が響き合う世界が魅力的なのです。

●次回は12月23日に団地の集会所で開催予定です。

記録:ササマユウコ


以下は、新井一座で採用している「サウンドスケープ」という考え方について少し詳しく書いたものです。ご興味のある方はご覧ください。

内側に生まれる世界を外側の音環境で包み込むように。撮影:カプカプ福田さん
内側に生まれる世界を外側の音環境で包み込むように。撮影:カプカプ福田さん

【サウンドスケープ・デザインについて】

 この日のふりかえりの場で触れた「サウンドスケープ・デザイン」について少し説明します。
 最初にもお話したように、新井一座で奏でる音はリトミックやBGMではなく「サウンドスケープ」というカナダの作曲家R.M.シェーファーが70年代に提唱した考え方を基本にしています。この言葉は「音の風景」と訳されることも多いですが、いわゆる効果音や伴奏ではなく(敢えてそういう場もありますが)、新井&板坂さんとメンバーたちが紡ぐ「場」の肌理を捉えて音に変換したり、場の空気感をつくるような音の関わり方をします。例えば場面緘黙症でコトバに詰まったメンバーの「沈黙」を緊張感のある時間にしないような工夫もします。”身体がつくる世界”を、もうひとつ外側から包み込むような「音環境」をつくるイメージです。ですから内側でメンバーが音を出したり歌ったりしていても、そこに同調するのではなく響き合うように、別の音世界を作っていくことが可能です。

【音楽のルールをどう考えるか】音楽教育ではなく福祉の場に「西洋音楽のルール」を導入する目的とは何でしょうか。音楽には基本的にルールがあり、「音が外れる」「間違える」というような「生きづらさ」を生んでしまうことが多々あります。本当はやりたくないのに強制的に訓練させられる”時間”も生まれてしまいます。反対に音が大好きで、ずっと音に触れていたい人もいます。音楽が好きなのか、音が好きなのか。ここを見分けることも大切です。ちなみにサウンドスケープにはルールではなく「音と場の関係性」を重視し、これを学ぶための音楽教育を「サウンド・エデュケーション」と呼びます。
 もちろん音楽の「作品」をつくりあげ一緒に演奏する素晴らしさもあります。が、カプカプではロジックの先にある世界を目指しています。加えて、新井さんの手法にはサウンド・エデュケーションの課題に通じる内容もあり、即興的な「コトバ」も音と呼応する大事な要素になっています。この日は小日山さんが手作りした炊飯器の内釜「ガムラン」をカプカプーズひとりひとりに叩いてもらいながら、「炊飯器、叩いてみれば、ありがたや」という言葉が自然と生まれていきました(笑)。「ありがたや」という言葉に導かれるようにカプカプーズはどこか宗教的な炊飯器の音を味わいながら、自然と手を合わせたり、祈りの所作を繰り返しているのが印象的でした。この7年間のカプカプの時間の中で何度も目撃した「宗教や芸術の原始」です。

 「サウンド(音・聴覚)スケープ(風景・視覚)」には文字通り、音楽と美術の両方の要素が入っています。実際に音を奏でる時、森や海の音風景のように具体的なイメージを生むこともあれば、「安定」や「躍動」といった抽象的なイメージを音で描くこともあります。しかし結局は「福祉」でも「音楽」でも音を出す動機に基本的な違いはないと感じています。この動機をルールに乗せるか否か。初期衝動をかたちにする美術のアール・ブリュットに相当する音楽は即興以外では考えられないか。ここは学術の世界でもこれから研究が深まっていく領域だと思います。(サ)


追記:実は現在、カプカプにはスマホのアプリを使って「作曲」に熱中しているメンバーがいます。彼女はもともと音感がよく、ほぼ「西洋音楽のルール」に則った曲を仕上げられるようになりました。しかし自分が作った曲中の「ルールから外れた音」に耳が馴染まず悶々としています。彼女の作品をルールに則って「整えて」しまうことは簡単です。が、それをすると個性が消えてしまう。彼女にとって作曲はゲームの延長なのかもしれません。さて、これは難問です。音楽はゲームなのでしょうか。帰り際に「要するにもっといろんな音楽を聴けってことだね」と彼女が呟いていたことが印象的でしたし、まさにその通りだと思いました。しかしルール通りに彼女の希望を叶えてあげることも音楽を楽しむひとつの方法だろうと、もうひとりの自分は思うのでした。これからテクノロジーの進化によって障害のある/ないを越えた様々なアートや音楽が生まれていくことでしょう。その時、音楽の世界ではどのような変化が起きるのか。今の私には想像もつきません。


記録①→「はじめに」10月

記録②→「現場実習:団地のピロティ編」11月

記録③→「横浜市の地域ケアプラザ編」2月

記録④→「祝祭編」3月