第6回キクミミ研究会・夏の特別座談会『生きることは即興である~それはまるで’へたくそな音楽’のように』@本屋B&B

下北沢のユニークな本屋さんB&Bにて、第6回キクミミ研究会夏の特別座談会『生きることは即興である~それはまるで’へたくそな音楽’のように』が開催されました(8月26日)

出演:若尾裕(臨床音楽)×新井英夫(体奏家)×ササマユウコ(音楽家/コネクト代表)

企画:CONNECT/コネクト 
主催:B&B

 サウンドスケープ、音楽教育、音楽療法、そして作曲、即興ピアニスト・・。研究者/教育者/音楽家を自然体で往来し、常に柔らかな姿勢で「音楽」と向き合い、その内側から芸術と人生の真理に迫る若尾先生。この国のアカデミズムでは本当に稀有な存在ですし、「キクミミ研究会~身体と音の即興的対話を考える」メンバー(新井英夫、ササマユウコ)が共に大きな影響を受けた芸術家人生の先達者でもあります。
 2014年のほぼ同時期に刊行された訳書『フリープレイ~人生と芸術におけるインプロヴィゼーション』(フィルムアート社)と著書『親のための新しい音楽の教科書』(サボテン書房)を中心に紐解きながら、この夜は音と身体の境界線を越えて自由に言葉を紡ぎ合い、まるで即興セッションのように生き生きとした柔らかな2時間を送ることができました。実は「看板に偽りなし」ということで、この座談会そのものも即興で進めていきましたので、終了後の感想から会場の皆さんも一緒に楽しんで頂けた様子を伺えて内心ほっとしていました。

 今月のコネクト考察「蓮の花のひらく音をきく」でも触れましたが、このところの社会の空気には、今までの人生で体験したことのないような息苦しさを感じていました。音楽の、特に即興演奏で体感するような自由な感覚を、何とか日常の「コトバの場」でも共有できないかと考えていたところ、さまざまな偶然が重なりこの企画が実現しました。前述の著書『親のための新しい音楽の教科書』の中で若尾先生も多角的な切り口から触れられていますが、音楽から社会やコミュニティの在り方、個の人生を考えることで思いもよらない発見があります。そこから硬直化した社会の突破口が見えてくる可能性も提示したいと密かに思っていました。
 学校教育で習う西洋クラシックは「はみ出す」ことが許されない五線譜と平均律を使う構築的な音楽
ですし、楽器の習得も「簡単なものから始め、難易度を上げていく」という’右肩上がり’の思想になりがちです。しかし若尾先生は「へたくそな音楽」の章でピアノの巨匠ホロヴィッツの例を挙げ、「私たちの社会には満足など最初からない」と諭します。それは経済成長が幻想だと気づきながらも生産性を求め、「生きること」の本質が見失われがちな今の社会の疲弊感そのものです。しかも芸術は非生産的ですから、そこに携わるだけで常に「何のために」が問われ、当事者たちも本来の意味を見失いがちだということにも気づきます。一方で、誰もが平等に(気軽に)参加でき、失敗が吸収されやすい民族音楽やコミュニティ音楽の仕組みについても「音楽の免震構造」という言葉で紹介されています。この「免震構造」は、硬直化した社会を柔らかくするヒント、人と人が境界線を越えて無理なくつながるコミュニティとは何かを示唆していると思います。

ご協力頂いた皆さんと。左から三宅博子、ヤン&アンジェラ、ササマユウコ、若尾裕、新井英夫、板坂記代子(敬称略)
ご協力頂いた皆さんと。左から三宅博子、ヤン&アンジェラ、ササマユウコ、若尾裕、新井英夫、板坂記代子(敬称略)

 中でも特に興味深かったのは「時間」の捉え方でした。以下は、筆者がこの日の座談会から音楽が「時間芸術」であることにあらためて焦点を当てて考えてみました。

 西洋クラシックには必ず「はじまり」と「終わり」という発想がありますが、インド古典はチューニングから何となく始まり、終りたい時/終わるべき時に「自然に」終わります。譜面に書き残された作品ではなく即興的な「演奏行為」そのものが音楽なのです。さらに世界を見渡せば「未来」も「過去」もない「今」だけを繰り返す民族音楽もある。本来は多様な「時間」を生きていたはずの世界が、いつしか西洋の時間(音楽)によって統一されていく。それが近代化であり、同じ時間の中では「はみ出す」ことが難しく、生きづらさにもつながっていく。つまるところ「時間」の概念こそが社会であり、個の人生観をも決定していきます。本来は、それぞれの時間や身体を生きていたはずの人間が、内側の声に耳をすました「自然な時間」を手にすることがいつの間にか難しくなってしまったのです。
 しかしこれは、どちらが「良い悪い」という話ではありません。共通の時間を持つことの恩恵も多々あるからです。ただし「時間」を音楽に置き換えて考えてみた時、世界中の音楽を一律に「オンガク」として括るのではなく、多様性を知ることから始める音楽教育が「生き方」の幅につながるだろうことは簡単に想像がつきます。
特に「即興演奏」は「今」という時間に集中する行為ですし、時間そのものである「生きる」を考える上でも大きな手がかりを与えてくれます。カオス的なノイズからテーマに向かって削ぎ落とされていく即興、JAZZのようにテーマから即興を発展させる方法論の違いも同様です。さらに、音楽療法や福祉の現場に生まれては消えていく「へたくそな音楽」の時間には、誰にも真似できないような、きらきらと魂が輝いた芸術を見つけ出すことがある。それは何故なのか、そこは今後もっと深めたいテーマだと思いました。

 一方で、新井英夫さんからの視点となった身体」も、自己と他者の差異を知り、身体の変化から意識する「時間」は「音楽」そのものだということが見えてきました。これはシェーファーが『世界の調律』の中で「身体モジュール」として触れていることです。身体は音楽であり時間である。即興はこの三者を瞬時につなぐ行為、生きることそのものです。洋の東西にある身体やダンスの教育システム、作品構造が、実は音楽と相似形なのです。即興的に動くことと振り付けられた作品を踊ることの違いは、音楽を作曲することと同様であり、芸術家の役割やパワーバランスそのものを捉えなおす機会にもなりました。

 音楽やダンスはもともと「非言語コミュニケーション」としても機能しますが、その内側には素敵なコトバ(思考や感性)が沢山存在します。しかしそれを外側につなぐ機会は少なく、当人たちも敢えて言葉だけの場をつくる必要性を感じてこなかったのも事実です。自分の感じたことや考えたことが最も伝わる手段は、それぞれの専門性だと自負しているからです。けれども一見「ロジカル」な言葉に溢れた今の社会にこそ、もっと非言語芸術家の言葉が必要ではないかと最近特に感じています。もちろん「非言語表現」をコトバ化するということには大変な矛盾も孕むわけですが、この「キクミミ研究会~身体と音の即興的対話を考える」ではそこを敢えて追求してみたいと思います。メンバー(新井、ササマ、板坂)がこれからの10年(50代)の生き方を考える中で、次世代に伝える言葉を鍛える場として、またその場を広く分かち合うことで、「生きたコトバ」が伝わっていくことを目指したいです。
 特に今回のイベントでは、開催前から思いがけず
本当に沢山の反響を頂いて、研究者と芸術家をつなぐコネクト活動も強く背中を押されたような気がしました。また是非、内と外をつなぐ自由で生き生きとした「場」をつくりたいと思いました。そしてこの日のために京都からお越し頂いた若尾先生ご夫妻、ご協力頂いた次世代アーティスト&研究者、B&Bスタッフ、そして何よりご参加頂いた皆さまに深く感謝いたします。

 「未来」が「今」の連続だとしたら、この瞬間に集中する行為が「即興」なのだと思います。たとえ「へたくそな音楽」だとしても、自分の心と身体を感じて精いっぱい奏でること。それこそが「生きる」ことだと、あらためて実感する一夜でした。何より自分が「やっぱり音楽が好き」であることを、若尾先生や新井さんの偽りのない言葉から実感することができました。ありがとうございました。
(2016.8.29 ササマユウコ記)

●このイベント専用のFBページはこちらです。当日の記録写真等がご覧いただけます。( photo:Hiroko Miyake,Kiyoko Itasaka,B&B,Jan)



♪余談ですが、話題の「シン・ゴジラ」で繰り広げられる膨大な会話劇について。もちろん映画としては非常に面白く、会議シーンの音楽的なスピード感は心地よくもあるのですが、あのシーンが取材に基づいた「リアルな」官僚たちの会話速度の再現だと聞いて少し心配になりました。徹底的に「間」が省かれた早口で硬質な言葉の嵐に身を浸しているうちに、「一億総活躍社会」や「クールジャパン官民連携プラットフォーム」といった、まず言葉ありきの発想が生まれるのでしょう。しかしそこから社会の余白や弱い立場の人たちがこぼれ落ち、「柔らかさ」が消え、身体性の欠如した言葉の輪郭だけを実現化しようとすると、何とも生きづらい社会になっていくわけです。とにかく「即興」から最も遠い場所にあるのが「行政」。逆に言えば「想定外」の権化であるゴジラこそ、「今」その瞬間の即興力が問われている問題のメタファーだと思うのでした。