●コネクト通信 2016バックナンバー


東京迂回路研究オープンラボふり返りレポ「詩・写真・声~そこから言葉をつむぐということ①」に寄稿しました。

東京アートポイント計画の一事業として10月に開催された東京迂回路研究のオープンラボ「言葉を交わし、言葉をつむぐ、5日間」ふり返りレポート。「詩・写真・声~そこから言葉をつむぐということ①」に「詩の考察/耳の哲学」を寄稿しています。他にも興味深い様々な視点からレポートが寄せられています。ぜひご覧ください。(ササマユウコ 12.20)


ミロコマチコ『まぜこぜけはい』展特別企画カプカプ祭が開催されました。

ミロコさんと富原さんのエネルギッシュなライブペインティング
ミロコさんと富原さんのエネルギッシュなライブペインティング

JIKE STUDIOで開催中のミロコマチコ『まぜこぜけはい』展特別企画として、コネクトでもおなじみの「カプカプ祭」が開催されました。この地域作業所カプカプではミロコさんと新井英夫さんのワークショップが5年ほど前から隔月で展開されています。ササマユウコも昨年春に新井さんのWSを取材したことをきっかけにサウンドスケープ・デザインの視点で音を担当しています。
 この日はミロコさんとカプカプーズによるライブペインティングに合わせて、9月の「カプカプまつり」で披露された「八木節スリラー」を軸に、絵とダンスと音がひとつになった1時間の即興セッションが繰り広げられました。カプカプーズが創る音の森、生きもののような絵具、そして身体の音楽。会場に足を運んだ子どもを含む60名近いお客様もカプカプーズと一緒に、最後は歌って踊って「祭り」を楽しみました。それは「障害とアート」という言葉の枠組みが小さく感じられるような、誰にとっても素敵なエネルギーに満ちた場だったと思います。この5年間で積み重ねられた信頼関係はもちろんですが、非言語アートだからこそ可能になるコミュニケーション、そして人間本来の「つながり方」をあらためて実感するひと時でした。ラスコーの洞窟壁画もきっとこうやって、音や踊りがついたに違いないと「芸術の起源」にもふと思いを馳せるひとときでした。

また第2部トークショーでは、所長・鈴木さんによるカプカプーズの日常紹介、ミロコさん×新井さんによる5年間のふり返りなど、福祉を越えて「よりよく生きる極意」のような楽しいお話を伺うことができました。(ササマユウコ記)

左から)ササマユウコ、カプカプ所長鈴木励慈さん、新井英夫さん、ミロコマチコさん、板坂記代子さん
左から)ササマユウコ、カプカプ所長鈴木励慈さん、新井英夫さん、ミロコマチコさん、板坂記代子さん
黒瀧さん作)カプカプ人間相関図
黒瀧さん作)カプカプ人間相関図

楽屋裏ではカプカプーズによるコスプレ準備中
楽屋裏ではカプカプーズによるコスプレ準備中

※ミロコマチコ展は25日まで


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2016年の活動報告

「即興」をめぐる地方出張や取材がつづいた11月はコネクト通信をお休みしましたが、また後日考察レポにてご報告したいと思います。
そして気づけば2016年も残りわずかとなりました。同時に①芸術家と研究者をつなぎ②情報発信の拠点となり③社会にひらくことを目的にスタートした「コネクト活動」も、準備期間を含めた2014年6月からの第一期3年間が残り半年を切りました。2017年3月の年度末にはそこまでの活動をふり返り、そして第2期(3年間)の展望をあらためてご報告したいと思います。

今回は(2016年1月~12月)の活動をこちらのページにまとめてみました(記事の写真をクリックすると情報が出ます)。あらためて記録写真の一部を並べてみると、ネットワークや活動内容が飛躍的に、しかも国内外に広がったと思います。その上で、もともと設立時から通奏低音にあったサウンドスケープ思想が、音楽の枠も越えて「耳の哲学/きくこと」として実践的に深まっていきました。コネクトは代表の個人的な音楽活動とは一線を画して、「公共性」を見据えて始まった活動ではありますが、軸となる「耳の哲学」は公私共に不可分であるということを認識した一年間でもありました。この「気づき」は第二期の活動に活かせていけたらと思っています。
※個別の活動詳細はコネクト通信考察レポをご覧頂けましたら幸いです。

●また、2017年以降のコネクト活動について、何かご意見・ご要望、共同企画、執筆依頼などございましたら、こちらからお気軽にお問合せ頂けましたら幸いです。
代表ササマユウコの「耳の哲学カフェ(音のワークショップ)」へのお問合せもどうぞ。

 

引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。

(2016年12月8日 代表:ササマユウコ記)


11月の活動から

●11月のコネクト活動については後日「即興」の視点から考察レポートとして取り上げたいと思います。

 

※写真は日本音楽即興学会に来日したS.ナハマノヴィッチ氏の参加者全員によるセッションの模様(代表はピアノで参加しています)。氏の著書である『フリープレイ』を翻訳した若尾裕先生には、この夏に下北沢本屋B&Bで開催されたキクミミ研究会の座談会『生きることは即興である~それはまるで’へたくそな音楽’のように』にご出演いただきました。ナハマノヴィッチ氏のWSはこの後東京でも開催され、そちらの模様も併せて考察したいと思います。


原爆ドーム、原爆資料館の見学。
同世代となる被爆者二世のお話を直接伺う機会もあって、非常に有意義な旅でした。

下旬には熱海で開催されていたAAF2016参加プロジェクト・泥沼コミュニティ

「ホーム/アンド/アウェイ」を訪問しました。


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「小さな音楽」の可能性~舞台音楽家・棚川寛子と特別支援学級生徒16名の『時を感じて・パフォーマンス』より@多摩市立青陵中学校(主催:アーツカウンシル東京、NPO法人芸術家と子どもたち)


生憎の雨でしたが、街はハロウィンの準備で華やか。
生憎の雨でしたが、街はハロウィンの準備で華やか。

 夏にご紹介したSUNDRUMにつづき、本日は多摩市立青陵中学校・合唱コンクール内プログラムで上演された舞台音楽家・棚川寛子さんと特別支援学級の生徒16名によるPKT(パフォーマンスキッズ・トーキョー)オリジナル作品『時を感じて・パフォーマンス』を鑑賞させて頂きました。(主催:アーツカウンシル東京、特定NPO法人芸術家と子どもたち 会場:パルテノン多摩・大ホール)。

 

 3学年の合唱が終わると、ステージの奥には大きなステンレス・ボウルが3つ、手前には大太鼓、鉄・木琴、ウィンドチャイム、ピアノ等の楽器が、最前には長机が3台一列に並べられました。特別支援のプログラムは昨年まで「筝」の演奏だったそうですから、このセットから何が始まるのか誰にも予想できなかったと思います(筆者もです)。代表生徒による挨拶が終わると、3人の男子生徒たちが上手から登場し、ユーモラスな「無言劇」が始まりました。その非言語のやりとりが実に自然体で面白かった。やがて彼らが色とりどりのプラコップを取り出すと、机上で「一捻り」あるリズムを刻み始めます。すると、その音に合わせて残りの生徒が登場し、全員が机とコップと身体でリズムを刻みながら『上を向いて歩こう』を歌うのです。その後、各自セットされた楽器に移り、まずボウルが叩かれると一気に「ガムラン」の音世界が広がり、場の空気が一変しました。台所用品と吹奏楽部の楽器を使っているはずなのに、どこか不思議でアジア的な音の風景が生まれる。ドラの代わりに叩かれる大太鼓がアクセントとなって、大きな会場が心地良い音に包まれていくのを感じました。決して威圧的でも、一方的でもない。その悠然たる「オンガク」は客席に驚きと感動を持って受け入れられていることは、会場の空気や後方の保護者の語る感想からも明らかでした。そして最後には「合唱コン」らしく、絵本から詩を紡いだという子どもたちのオリジナル曲がピアノ伴奏とともに歌われ、会場は大きな拍手に包まれていました。

 子どもたちが主役になった時間、それは棚川寛子さんの「アート(技術)」との幸福な出会いだったと思います。棚川さんによれば準備期間に実施した11回のワークショップのうち7回くらいまでは、子どもたちになかなか心をひらいてもらえず苦労したそうですが、回を積み重ねていくうちに徐々にリズムが揃い、音楽が立ち現れるその喜びを子どもたち自身が掴み取っていく手ごたえは感じていたそうです。しかしそこに「決定的なきっかけ」があった訳ではない。時間の積み重ねの中で、ゆっくりと子どもたちの内側にある芸術が開花することを信じて待つしかない、その信頼関係があったからこそ、今回の「音の力」が生まれたのだと思います。単に「上手く」演奏できている、音が揃っている、作品の質が高いという次元の話しではない。まさにそれが芸術の世界です。

 もちろんそこには棚川さんのプロの「仕事」、彼女の優れた耳とセンスによる音の取捨選択(デザイン)があった。特に彼女の音楽性の根幹とも言える、楽譜を使わずに稽古場で即興的に演者の身体から音楽を生み出す手法、高い評価を受けているク・ナウカの舞台音楽を始め、その経験値の高さが子どもたちの即興性や音楽をうまく引き出せたのだと思いました。何より彼女によって選び取られた音そのものの力が、子どもたちの耳と心を自然にひらいていった。芸術家の想いを託され「やらされている」のではない、子どもたちは自らの意志で’パフォーマー’として存在していると感じました。それが会場にいた他の子どもたち、大人たちにも、「芸術」とは何かを考えるきっかけになっていたとしたら、これほど素敵なことはありません。

 本来「芸術」の前では誰もが平等です。そこには様々な尺度があり、視点を変えると優劣の反転が起きる。合唱コンで整然と歌い競うことと、特別支援級の彼らが演奏し歌うことの何が同じで、何が違うのか。心に響く音楽とは何か。プロの仕事とは何か。さまざまな気づきを与えてくれる時間だったと思います。

 

 昨今は特に「大きな芸術」が注目され、「アートを使う」「アートを役立てる」と、芸術家が不在のまま「職能」としてのアートが議論されています。その一方で、今回の主催であり、中間支援の先駆け的存在でもあるNPO法人芸術家と子どもたちのように、プロの芸術家と真摯に対峙し丁寧な場づくりを続ける団体も存在します。芸術家からも、この団体と仕事がしたいと声が上がる理由のひとつはそこにあると思います。

 今回のPKTは東京アーツカウンシルとの共同事業のため、残念ながら都内の学校に限定されますが、昨今は各自治体が主催する芸術家のワークショップも増えました。そこに参加する子どもたちが主役であることは大大前提ですが、芸術家を始め、関わる人たちすべてが「芸術の力」を噛みしめるような、幸福な場づくりが望まれます。経済システムが軋み始めている「大きすぎる芸術」とは違う、丁寧で「小さな芸術」にこそ神は宿る。その奇跡の積み重ねが、何かを少しづつ変えていくのだと信じたい。なぜなら、そこに関わるすべての子どもたちが「未来」だからです。(ササマユウコ 記)


泥沼コミュニティ「ホーム/アンド/アウェイ」(AAF2016参加)巡回展のお知らせ

 

〇4月にアートラボはしもとで開催された『HOME/AND/AWAY』(AAF2016参加)の巡回展が10月26日から熱海で始まります。路上観察学会分科会有志メンバー(西郷タケル、ササマユウコ、山内健司、鈴木健介)によるZINE+漫画、サウンド・インスタレーション(はしもとの空耳)も出展します。アートスポットとしても若い世代から注目が集まっている熱海。お近くにお出かけの際は是非お立ち寄りください。

開催:10月25日(火)~11月27日(日)(月曜定休)
会場:RoCA晴(熱海市銀座町10-19 1F)


主催:泥沼コミュニティ 共催:RoCA晴 協力:女子美術大学、アートラボはしもと、混流温泉文化祭 後援:アートラボはしもと事業推進協議会(相模原市・女子美術大学・桜美林大学・多摩美術大学・東京造形大学) 特別協賛:アサヒビール株式会社
助成:公益財団法人アサヒグループ芸術文化財団


シンポジウム「障害とアートの現在~異なりをともに生きる」@東京大学大学院総合文化研究科・教養学部附属(UTCP)(10/9)

10月9日に東京大学大学院総合文化研究科・教養学部附属 共生のための国際哲学研究センター(UTCP)で、シンポジウム「障害とアートの現在~異なりをともに生きる」が開催されました。障害者を扱ったテレビ番組をめぐる「感動ポルノ」問題、2020年東京パラリンピックを見据えた「アールブリュット」政策をはじめ、現在の「障害の場にあるアート」について、この日はコネクトも縁の深いカプカプ所長の鈴木励慈さん、『目のみえない人は世界をどう見ているのか』著書・伊藤亜紗さん(東工大)の最先端の研究など、多角的な視点から「アートの現在」が語られた有意義な時間となりました。
※詳細は主催者HPをご参照ください。
 残念ながらこの日は午後からの参加だったため、シンポジウムそのものへのコメントは控えたいと思いまが、最前線のアカデミックな場でも、現在はこのようなシンポジウムが多く開催されていることをご紹介したいと思いました。場は基本的に「ひらかれて」いますので、アカデミズムに偏らず多様な意見が飛び交う「場」が当たり前に開かれていくことに、何より大きな意義があると思いました。コネクトの「障害とアート」の見解につきましては、先日のコネクト考察レポ6「アウトサイダー・アートを考える」もご参照頂ければと思います。

 ただひとつ気になっている点があります。それは「障害とアート」が語られる場において、実際に現場を託されることの多い「アーティスト」の視点、またはその仕事への評価が不在のまま議論が進むことがわりとよくあるということです。「生きるための技術」としてのアートは、アーティストにとっては「技術以上」のアイデンティティでもある。そこに対する配慮の無いまま、アートを「ツールとして役に立てる」「提供する」ことが当たり前のように要求される。それはアート/アーティストへの理解の足りなさ、「好きなことをやっているのだから」という暗黙のハラスメントと紙一重とも感じています。「障害とアート」は逞しさと同時に傷つきやすさも抱えた、実は非常にデリケートな場である。そこに携わる人たちには豊かな「想像力」やクリエイティビティが必要なのです。
 もちろん、アーティストは社会的な’弱者’とは言えないかもしれませんが、マイノリティであることは確かです。もともと何かしらの生きづらさを抱えていて、やっとの思いで見出したのがアート=アイデンティティだったりもする。それを単なる「技術」としてひと括りにされる。または「やりがい搾取」のような現場がある。「誰もが」ともに生きる社会を目指す場の「誰も」にアーティストが入っていない場合がある。しかも「障害」のある場にクリエイティビティを見出し、自身のアートを揺るがすことなく昇華できるようになるには、アーティスト自身にも時間や経験、あとはこれが最も大きいと思いますが「適性」が必要です。しかし厄介なのは、その「適性」とアーティストとしての「資質」が必ずしもイコールとは限らない。特にアートとしての「質」が問われていない現場では、そこに何が求められているのかが分からず戸惑いや不安が生まれる。それはアーティスト自身を成長させるきっかけとなる場合もあれば、アーティストも障害者も、どちらをも傷つけてしまうような危険性も潜んでいることを肝に銘じた上で、「アートと障害」に向き合わなければいけないと思うのです。
 2020年を前に、今後社会はアートに対して、ますます「役に立つ」ことを求めることでしょう。そこには「善意」という暗黙の圧力がかかっていないか。雇用形態として弱者にあるアーティストが「NO」と言えない状況に追い込まれていないか。アカデミズムは「研究対象」として他者のアイデンティティを利用してはいないか。常に自問自答を忘れないでいたいと思います。
 本来アートには、社会に対して「カウンター」としての視点を投げかけたり、時には「役に立たないこと」にも意味があると教えてくれる役割もあります。それは「障害」にとっても親和性の高い、素敵な「チカラ」になるものだと思います。だからこそアートそのものも、「役にたたなくても」大事な余白として受け入れられるような、柔らかな社会の雰囲気を大切にしたい。アート自身が多様性を失い、ひとつの目的に集約されるような現場を生むようなことは避けたいと思うのです。
 先日ノーベル賞を受賞された大隅先生もおっしゃっていました。「’役に立つ’という言葉が社会をだめにする」と。それは本当に科学もアートも同じ状況にあって、今の社会の空気に対する大事な警告と受けとめました。(ササマユウコ記)。


NPO法人芸術家と子どもたち「児童養護施設等における被虐待児や障害児へのアートを通した自立支援活動」報告書について (2016/10/1)

(追記)2018年8月1日の時点。この友愛学園のワークショップは継続していますが、公益財団法人三菱財団からの助成は終了しています。また東京オリンピック・パラリンピックを視野に入れた福祉とアートの助成は東京都を中心に増加傾向。むしろ福祉系とハイアートが助成枠を食い合うことのないように、2020年までの動向も気になるところです(サ)。

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FBで大変反響の大きな記事でしたのでこちらでもシェアします。
特定非営利活動法人「芸術家と子どもたち」で実施された児童養護施設ワークショップの報告書です。3月~7月にかけて友愛学園で実施された新井英夫さんのワークショップに、ササマユウコもサウンドスケープ・デザイン担当として参加させて頂きました。昨年12月から新井さんと隔月で実施している「キクミミ研究会〜身体と音の即興的対話を考える」でフィードバックを重ねつつ、今回は子どもたちが他者の「音」をきき合いながら、身体が自然に「音風景」となるような場を目指していきました。最後の発表(公開ワークショップ)では、施設の中庭も使って、室内と野外が音でつながるような奥行のある空間構成も実現しました(不思議な静けさと美しさのある世界でした!)。個人情報が重視される場の性質上、ワークショップの様子を外側にお伝えする機会が少ないのが残念ですが、いわゆる「作品」とは違う、障害をもつ子どもたちとの身体表現の場に人知れず生まれては消えていく芸術の力に、もちろん子どもたちの力の大きさにあらためて気づかされました。また、そこを積極的に担っている新井さんのような芸術家たちの仕事の「意味」を、まずは芸術の内側で、そして社会で考えることは、ある種の’優生思想’に陥りがちな今日の「芸術」を問い直す場として、また相模原やまゆり園事件の悲劇を二度と繰り返さないためにも重要だと思いました。子どもたちが暮らす「施設」は隔離された「特別な場所」ではなく、私たちの日常の延長線上にあるという意識の変化。企業メセナや公的助成制度が対象とする「芸術」が、どうしても富裕層向けハイアートや、クラシック&アカデミックな場に偏りがちだった中で、今回のように能力主義や成果主義とは「別の価値観」をもつ社会福祉の現場にまで広がると、これからの芸術や社会そのものが、もっと自由に息が出来るのではないかと小さな希望も感じました。もちろん今回のワークショップは新井さんの柔らかな芸術性、何より経験値の高さが必要だったことは言うまでもありません。

今回は貴重な場の報告がシェアされたので、こちらでもご案内いたします。(ササマユウコ記)

 

///////////以下は「芸術家と子どもたち」からの転送///////////////

当団体では、児童養護施設におけるワークショップの取り組みを続けており、この度、活動を振り返る記録・事業紹介パンフレットを発行しました。

2015年12月から2016年7月まで、「公益財団法人三菱財団」の助成を受けて、都内児童養護施設2か所と障害児入所施設1か所で実施したワークショップの記録です。アーティストのインタビューや、参加した施設の職員の方々の感想を交えながら、児童養護施設等におけるアーティスト・ワークショップの意味を考えます。

[記録・事業紹介パンフレットダウンロードページ]

児童養護施設等における被虐待児や障害児へのアートを通した自立支援活動

~アーティスト・ワークショップの記録・事業紹介~

http://www.children-art.net/jidouyougo_report2016/

※本事業は、公益財団法人三菱財団の平成27年度社会福祉事業・研究助成を受

けて実施しました。

※記録冊子は、関係者への配布を目的とし、販売はしておりません。

地域作業所「カプカプ」18周年祭りに参加して、考えたこと@横浜・ひかりが丘団地

ミロコマチコさんとカプカプーズ作の顔出しパネル撮影会
ミロコマチコさんとカプカプーズ作の顔出しパネル撮影会

体奏家/新井英夫さんと絵本作家ミロコマチコさんが隔月でワークショップを行っている地域作業所カプカプ。毎年9月になると開店記念のお祭りが行われます。新井一座では毎年好例、オリジナル・ダンスの「新作発表」をするのですが、今年は「カプカプ八木節スリラー」が午前午後、計4回にわたり「飛び入り大歓迎」で、地域の皆さん、見学者を巻き込んで団地の商店街で賑やかにお披露目されました。
 コネクト代表の本業は音楽家ですので、この日もワークショップ同様に太鼓や音具で参加させていただきました。実は2011年3月以降、「音を出すことの意味」を見失ってしまって、数年間ほとんど音を出さずに「サウンドスケープ(耳の哲学)」を通して「音楽とは何か」という問題と向き合ってきました(その続きにコネクト活動があります)。それが様々な偶然が重なって、特にこの「カプカプ」の新井一座との出会いを通して、今あらためて「音を出すこと」や「音楽すること」のチカラを噛みしめています。何よりこの1年半近くの自身の心境の変化は、当事者研究としても大変興味深いので、また日をあらためて考察しようと思っています。
 コネクトのオフィスがある相模原市では、7月に公共の福祉施設内で大変残念な事件が起きてしまいました。段々と明らかになる犯人の「障害者」への認識、その犯行動機等がどうにも「間違っている」と感じますし、もしかしたら防げたかもしれない悲劇だと考えると、犠牲になられた皆様のご冥福を心からお祈りすると共に、本当に「残念」という言葉しか見つかりません。そしてこの事件をきっかけに福祉施設が「安全」のために地域から閉ざされ、最も大切な「安心感」が失われてしまうことへの懸念もあります。

店頭の売り物「植木鉢」と太鼓を使った新井さんとメンバーの即興セッション
店頭の売り物「植木鉢」と太鼓を使った新井さんとメンバーの即興セッション

 カプカプ祭りはみんなで商店街で踊って「音を出す」行為です。それは自分たちの存在を周囲に知らせ、受け入れてもらう「儀式」でもあると思います。常日頃の信頼関係が無ければとても成立しない場です。昨年はじめてお祭りに参加した時は、団地の日常空間に向けて非日常の音を出すことに正直ドキドキしました。けれどもそこで実感したのは、カプカプは地域に愛され、受け入れられているという安心感でした。もちろんここで働く愛すべき個性豊かなメンバーたちも含め、所長の鈴木励慈さん&まほさんが日々「誰にとっても居心地のよい場所」をつくろうと、地域にひらかれた喫茶店を拠点に周囲への心使いを重ねてこられた結果です。ひとりひとりの「顔」がみえること。オープンな雰囲気であること。その中での日々の積み重ねが、この「奇跡の一日」を可能にしている。祭りは開店記念であると同時に、この作業所がこれからも変わらずに商店街に「ひらかれる」「受け入れられる」という安心感を共有する場でもあると思いました。
 大きな変化ほど、すぐには結果が見えづらいものです。延々と同じことが繰り返されるような辛抱や、それなりの時間が必要になる点は子育てと同じだと思います。それでも小さな変化が、一年後には本当に想像もしなかった一歩につながっていることがある。もちろん、同じように自分自身も目に見えない小さな変化を重ねている。それは「年を重ねる」ことであり、そこには「出来ること&出来なくなること」の両方が含まれる。ある日突然、その変化に気づく瞬間がある。その時に私たちはオロオロしながらも、’障害’のある/なしの境界線を越えて、最後は「みんな同じ」になっていくのだろうと、長い目で人生を見られるようになるのです。事件の犯人のような優生思想に陥りがちな人には、時間と共に変化する自己/他者、何より「想定外」という概念が、生きる時間からすっぽり抜け落ちている気がします。

最後は地域の人も見学に訪れた人もみんな巻き込んで。
最後は地域の人も見学に訪れた人もみんな巻き込んで。

誤解を恐れずに言えば、カプカプには「弱い人」はいません。他の作業所に馴染めずに集まった人が多いとききますが、それは彼らの根底にある「アーティスト」としての魂がきちんと息をしているからだと思います。人が個性を認められ、ありのままに受け入れられることで生まれる「安心感」こそが生きることの幸福感だと思いますし、人を強くもします。むしろ今は誰もがそんな「居心地の良い場」、本当の自分でいられる場を切実に欲しています。それは相模原の犯人も同じだったかもしれない。あの事件は決して「福祉の場」に限られた特殊な事件ではないと感じています。人は関係性が固定化した環境に置かれた時に、息苦しさを感じるのではないかと思います。家族、学校、友人、会社・・・いちど固まってしまった関係性を柔らかくするのは容易ではありません。逃げ出すこともままならない。そういう時に本来は「芸術」が大きな力になってくれるはずでした。一枚の絵から、一曲の音楽から、一本の舞台から、当たり前だと思っていた関係性や価値観が揺さぶられる。はじめて出会う価値観、知らなかった世界を知る。例えば、かつての芸術には行政的指標や評価に関係なく、息苦しい日常の「外側」に出て、ゆっくりと深呼吸のできる場が(公共の劇場であっても)存在していました。のんびりした時代だったと言えばそれまでですが、システムや法の整備だけでは、ましてやロボットでは決して代わることが出来ないのが芸術や福祉の領域の奥深さだと思います。
 このカプカプに間違いなくあるのは信頼関係に基づいた圧倒的な「表現の自由」です。そして「世話をする/される」という関係性をはるかに越えた複雑で面白い人間模様。誰もがほっと息のつける柔らかなザツゼンさがある空間。まさにそれこそが人間関係の「芸術」だと思うのでした。(ササマユウコ)。

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第6回キクミミ研究会・夏の特別座談会『生きることは即興である~それはまるで’へたくそな音楽’のように』@本屋B&B

下北沢のユニークな本屋さんB&Bにて、第6回キクミミ研究会夏の特別座談会『生きることは即興である~それはまるで’へたくそな音楽’のように』が開催されました(8月26日)

出演:若尾裕(臨床音楽)×新井英夫(体奏家)×ササマユウコ(音楽家/コネクト代表)

企画:CONNECT/コネクト 
主催:B&B

 サウンドスケープ、音楽教育、音楽療法、そして作曲、即興ピアニスト・・。研究者/教育者/音楽家を自然体で往来し、常に柔らかな姿勢で「音楽」と向き合い、その内側から芸術と人生の真理に迫る若尾先生。この国のアカデミズムでは本当に稀有な存在ですし、「キクミミ研究会~身体と音の即興的対話を考える」メンバー(新井英夫、ササマユウコ)が共に大きな影響を受けた芸術家人生の先達者でもあります。
 2014年のほぼ同時期に刊行された訳書『フリープレイ~人生と芸術におけるインプロヴィゼーション』(フィルムアート社)と著書『親のための新しい音楽の教科書』(サボテン書房)を中心に紐解きながら、この夜は音と身体の境界線を越えて自由に言葉を紡ぎ合い、まるで即興セッションのように生き生きとした柔らかな2時間を送ることができました。実は「看板に偽りなし」ということで、この座談会そのものも即興で進めていきましたので、終了後の感想から会場の皆さんも一緒に楽しんで頂けた様子を伺えて内心ほっとしていました。

 今月のコネクト考察「蓮の花のひらく音をきく」でも触れましたが、このところの社会の空気には、今までの人生で体験したことのないような息苦しさを感じていました。音楽の、特に即興演奏で体感するような自由な感覚を、何とか日常の「コトバの場」でも共有できないかと考えていたところ、さまざまな偶然が重なりこの企画が実現しました。前述の著書『親のための新しい音楽の教科書』の中で若尾先生も多角的な切り口から触れられていますが、音楽から社会やコミュニティの在り方、個の人生を考えることで思いもよらない発見があります。そこから硬直化した社会の突破口が見えてくる可能性も提示したいと密かに思っていました。
 学校教育で習う西洋クラシックは「はみ出す」ことが許されない五線譜と平均律を使う構築的な音楽
ですし、楽器の習得も「簡単なものから始め、難易度を上げていく」という’右肩上がり’の思想になりがちです。しかし若尾先生は「へたくそな音楽」の章でピアノの巨匠ホロヴィッツの例を挙げ、「私たちの社会には満足など最初からない」と諭します。それは経済成長が幻想だと気づきながらも生産性を求め、「生きること」の本質が見失われがちな今の社会の疲弊感そのものです。しかも芸術は非生産的ですから、そこに携わるだけで常に「何のために」が問われ、当事者たちも本来の意味を見失いがちだということにも気づきます。一方で、誰もが平等に(気軽に)参加でき、失敗が吸収されやすい民族音楽やコミュニティ音楽の仕組みについても「音楽の免震構造」という言葉で紹介されています。この「免震構造」は、硬直化した社会を柔らかくするヒント、人と人が境界線を越えて無理なくつながるコミュニティとは何かを示唆していると思います。

ご協力頂いた皆さんと。左から三宅博子、ヤン&アンジェラ、ササマユウコ、若尾裕、新井英夫、板坂記代子(敬称略)
ご協力頂いた皆さんと。左から三宅博子、ヤン&アンジェラ、ササマユウコ、若尾裕、新井英夫、板坂記代子(敬称略)

 中でも特に興味深かったのは「時間」の捉え方でした。以下は、筆者がこの日の座談会から音楽が「時間芸術」であることにあらためて焦点を当てて考えてみました。

 西洋クラシックには必ず「はじまり」と「終わり」という発想がありますが、インド古典はチューニングから何となく始まり、終りたい時/終わるべき時に「自然に」終わります。譜面に書き残された作品ではなく即興的な「演奏行為」そのものが音楽なのです。さらに世界を見渡せば「未来」も「過去」もない「今」だけを繰り返す民族音楽もある。本来は多様な「時間」を生きていたはずの世界が、いつしか西洋の時間(音楽)によって統一されていく。それが近代化であり、同じ時間の中では「はみ出す」ことが難しく、生きづらさにもつながっていく。つまるところ「時間」の概念こそが社会であり、個の人生観をも決定していきます。本来は、それぞれの時間や身体を生きていたはずの人間が、内側の声に耳をすました「自然な時間」を手にすることがいつの間にか難しくなってしまったのです。
 しかしこれは、どちらが「良い悪い」という話ではありません。共通の時間を持つことの恩恵も多々あるからです。ただし「時間」を音楽に置き換えて考えてみた時、世界中の音楽を一律に「オンガク」として括るのではなく、多様性を知ることから始める音楽教育が「生き方」の幅につながるだろうことは簡単に想像がつきます。
特に「即興演奏」は「今」という時間に集中する行為ですし、時間そのものである「生きる」を考える上でも大きな手がかりを与えてくれます。カオス的なノイズからテーマに向かって削ぎ落とされていく即興、JAZZのようにテーマから即興を発展させる方法論の違いも同様です。さらに、音楽療法や福祉の現場に生まれては消えていく「へたくそな音楽」の時間には、誰にも真似できないような、きらきらと魂が輝いた芸術を見つけ出すことがある。それは何故なのか、そこは今後もっと深めたいテーマだと思いました。

 一方で、新井英夫さんからの視点となった身体」も、自己と他者の差異を知り、身体の変化から意識する「時間」は「音楽」そのものだということが見えてきました。これはシェーファーが『世界の調律』の中で「身体モジュール」として触れていることです。身体は音楽であり時間である。即興はこの三者を瞬時につなぐ行為、生きることそのものです。洋の東西にある身体やダンスの教育システム、作品構造が、実は音楽と相似形なのです。即興的に動くことと振り付けられた作品を踊ることの違いは、音楽を作曲することと同様であり、芸術家の役割やパワーバランスそのものを捉えなおす機会にもなりました。

 音楽やダンスはもともと「非言語コミュニケーション」としても機能しますが、その内側には素敵なコトバ(思考や感性)が沢山存在します。しかしそれを外側につなぐ機会は少なく、当人たちも敢えて言葉だけの場をつくる必要性を感じてこなかったのも事実です。自分の感じたことや考えたことが最も伝わる手段は、それぞれの専門性だと自負しているからです。けれども一見「ロジカル」な言葉に溢れた今の社会にこそ、もっと非言語芸術家の言葉が必要ではないかと最近特に感じています。もちろん「非言語表現」をコトバ化するということには大変な矛盾も孕むわけですが、この「キクミミ研究会~身体と音の即興的対話を考える」ではそこを敢えて追求してみたいと思います。メンバー(新井、ササマ、板坂)がこれからの10年(50代)の生き方を考える中で、次世代に伝える言葉を鍛える場として、またその場を広く分かち合うことで、「生きたコトバ」が伝わっていくことを目指したいです。
 特に今回のイベントでは、開催前から思いがけず
本当に沢山の反響を頂いて、研究者と芸術家をつなぐコネクト活動も強く背中を押されたような気がしました。また是非、内と外をつなぐ自由で生き生きとした「場」をつくりたいと思いました。そしてこの日のために京都からお越し頂いた若尾先生ご夫妻、ご協力頂いた次世代アーティスト&研究者、B&Bスタッフ、そして何よりご参加頂いた皆さまに深く感謝いたします。

 「未来」が「今」の連続だとしたら、この瞬間に集中する行為が「即興」なのだと思います。たとえ「へたくそな音楽」だとしても、自分の心と身体を感じて精いっぱい奏でること。それこそが「生きる」ことだと、あらためて実感する一夜でした。何より自分が「やっぱり音楽が好き」であることを、若尾先生や新井さんの偽りのない言葉から実感することができました。ありがとうございました。
(2016.8.29 ササマユウコ記)

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MATHRAX『じぶんのまわり展』with視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ@茅ヶ崎市美術館

 コネクトネットでもご紹介させて頂いた相模原市在住のアーティスト・ユニットMATHRAX(久世祥三+坂本茉里子)ご夫妻の展覧会『じぶんのまわり展』が現在、茅ヶ崎市立美術館で開催されています。昨日(8月11日)は、偶然こちらの展覧会で『視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ』が実施されるとのことで、現場の様子を見学させて頂きました。

 点字バージョンも作成された展覧会フライヤーには「耳でながめて 目でかいで 鼻でふれて 手できいて」とキャッチコピーが記されています。その言葉が示す通り「なでる」と優しい音のする木製の動物や石たちが手や耳の感覚を、時間とともに変化する空の色のような光のオブジェが「記憶」を呼び覚まし、さまざまな「関係性」を示唆するように展示されていました。MATHRAXの作品はおそらく、その場とモノとの関係性から生まれる展示方法でも印象が変化し、どの作品も受け身ではなく鑑賞者が自らの五感を使って「関わる」ことで完成する作品たちです。その作品性は今回のワークショップの目的である「みえる/みえない」をつなぐ媒体としても非常に相性が良かったと言えるのではないでしょうか。応募も抽選になるほどの人気だったようです。

株式会社資生堂が開催した「LINK OF LIFE ふれる。さわる。美の大実験室』展で資生堂の研究者と共同制作された作品「Language]
株式会社資生堂が開催した「LINK OF LIFE ふれる。さわる。美の大実験室』展で資生堂の研究者と共同制作された作品「Language]

 今回のワークショップでは2チームに分かれて、3つの主要な作品をそれぞれ順路を逆にして巡りました。「視覚障害者と~WS」は、参加者同士が作品に触発されながらオープンな関係性の中で自由にコトバ(感想)を表現する、他者の感性の違いを知る/知られる面白さがあります。今回鑑賞したMATHRAX作品は、例えば他者の奏でた「自分とは違う音」を「きく」ことで作品の印象が変化する瞬間があります。鑑賞者はそこで自分の「枠」を越える体験をします。

木の作品ひとつひとつの「触り心地」の違いを発見し伝える人(手)。オブジェを「日常のモノ」に置き換えながら説明する人(目)。作品内部からきこえる音を分析する人(耳)。香りに刺激された「記憶」を語る人(鼻)...自分の手、目、耳、鼻の感覚を言葉に変えることは、楽しいけれども意外と難しい作業だったかもしれません。作品との「関わりの距離」を縮めたり広げたりしながら、まずは「みえる人」の自由なコトバが連想ゲームのように「みえない人」の想像力を掻き立て、双方に「対話」が生まれていきました。一方で両者に共通する「嗅覚」や「聴覚」については、「みえない人」は五感を使う人よりも音(耳)や香(鼻)の反応が敏感だったと思います。「手」は日頃から「みる」役割も果たしているせいか(点字しかり)、特にデフォルメされた動物オブジェの「かたち」については、「みえる人」の情報を何度も確かめているのが印象的でした。彼らの手が覚えている「動物のかたち」とはだいぶ違うかたちのようでした。そして、その初めての体験こそが芸術体験であり、その「驚き」は「みえる/みえない」とは無関係なのだと思います。

特に興味深かったのは「宇宙の音を編む」コーナーの、向かい合わせに展示された円型のオブジェ。これを撫でると、天井からつるされた6つのスピーカーに内蔵されたちいさな「星」が光り、遠くからきこえる教会のオルガンのような荘厳なハーモニーが降りてくる「ステラノーヴァ」(新星)という作品体験でした。「みえる人」同士は相手に合わせた手の動きに重点が置かれ(身体コミュニケーションが優先され)、奏でられる音が必然的に多くなります。一方、「みえない人同士」では、お互いの「音」を聴き合いながら静かで美しいハーモニーが生まれる。「みる」と「きく」のどちらを関係性に優先するかによって、そこに生まれる「音の風景」が違うということはとても興味深い結果でした。古代の人が気づいた「宇宙の音楽(ムジカ・ムンダーナ)」はもしかしたら、目を閉じた時にきこえてくるのかもしれませんし、もしくは星の関係性を「みるオンガク」だったのかもしれません。

 幾何学と流線、アナログとデジタル、木とプラスチック...一見すると対照的な要素が、音や光そして「五感」を介して共生しているMATHRAXの作品展。そこに生まれる世界は未来の音風景のようでいて、実ははるか昔から人が求めてきた「調和の世界」(ハルモニア)のかたちではないだろうかと思うのでした。

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「パフォーマンスキッズ・トーキョー」ホール公演Vol.42 SUNDRUM(サンドラム】編 「たいこたたいて うたって おどろう!真夏の大サンシャイン音頭ゥ☆ヤホホイ!」

 作曲家・宮内康乃さん主宰の「つむぎね」主力メンバーでもある大島菜央さん、ArisAさん等で構成されたパフォーマンス集団「SUNDRUMサンドラム」。国内外のライブが注目ですが、今日はホールを使った初めてのワークショップということで、東大和市ハミングホールで開催されたパフォーマンスキッズ・トーキョーの公演「たいこたたいて うたっておどろう!真夏の大サンシャイン音頭ゥ☆ヤホホイ!!」を観せて頂きました。実は私の方も今日が初サンドラムだったのですが、内容は「ほぼいつも通り(当事者弁)」だったそうで、子どもたちを大らかに包み込み、ホールの内外を使った壮大でパワフルなプログラムが完成していました。休憩なしの濃密な1時間半、まずは10人の子どもたちが「やりきった!」こと、集中がまったく切れなかったことに驚きました。都市郊外の新興住宅地で育つ子どもたちの中に、21世紀型伝統芸能が生まれる瞬間に立ち会えたような気持ちでした。もしくは秘境の奇祭を目撃したような不思議な感動か。わらべうたや盆踊りの持つ「型」の力も上手に活かされたことで、音楽的には複雑な要素でも無理なく楽しく挑める。誰にでも平等に自然に「見せ場」が回ってくるので、その場を引き受ける潔さが子どもたちに育まれていたと思います。そして特筆すべきなのは、今回のワークショップが鹿の皮や地元の竹を切りだして、自分たちが使う太鼓を作ることから始まっていることです。生命や自然と地続きにある太鼓の響きを本能的に「自分の音」としてよくきいて丁寧に力強く鳴らしていました。さらに印象的だったのは、馴染みのある日本語を喉に負担のない地声で歌にするサンドラム独特の歌唱法です。歌と太鼓と身体、ワークショップは地に足のついた手法が基本ですが、子どもたちにとっては日常にポケモンの幻を探す以上に、幻想的で夢のような体験だったと思います。心身のリズムが見事に一体化した心躍る生命の時間でした。

最後は見学者も全員ロビーで輪になって踊り歌いました。境界線を越えてサンドラムの世界に入る瞬間はまるで神事。さまざまな仕掛けやアーティストの要求に応えたホールの柔軟な姿勢も評価すべきと思います。何より「サンドラム」という底知れぬ可能性に、今後も期待したいと思いました。(ササマユウコ記)


ソフィア哲学カフェ(@上智大学グローバル・コンサーン研究所)に参加しました。

コネクトではシェーファーと所縁の深い弘前大学今田研究室の「音楽×哲学カフェ」を開催していますが、そもそも大学から社会に「哲学カフェ」を広めたのは、鷲田清一先生を中心にした大阪大学臨床哲学研究室。阪神淡路大震災を機に、生きるための実学としての「哲学」を関西から全国にひらいてきました。その臨床哲学の根幹にある「聴くことの力」は、「きく」から世界と関わり直すサウンドスケープの考え方とも非常に親和性が高いと考えています。「しゃべりすぎていた哲学」「奏ですぎていた音楽」、つまりは専門領域からの一方通行だった関係性を内側から見直し、誰にとってもひらかれた「哲学」「音楽」の在り方、相互関係としての対話を考え、社会にひらきます。

 

5月30日には臨床哲学の寺田俊郎先生(現上智大学哲学科長)が進行役を務める哲学カフェが、同大学グローバル・コンサーン研究所で開催されました。寺田先生には共通の知人がいること、また会場が筆者の母校ということもあり足を運んでみました。この日のテーマは「いのち」です。学内での開催ということで、10名を超える参加者は哲学科の学生さんが中心となり、そこに一般の’大人’たちが数名参加するという珍しい場となりました。哲学カフェの面白いところは、さまざまな背景をもつ世代を越えた人たち誰もが、哲学の専門知識を必要とせず’平等に’参加できるということです。ただしそこに生まれる場は、リラックスした雰囲気ながらも単なる雑談ではなく、専門性を持つ「進行役」(今回は寺田先生)によって緩やかに交通整理され、時間の経過とともに哲学のスパイスが効いた対話の時間へと変化していきます。時おり立ち止まり、トピックをふり返り共有する。さまざまな角度から語られ、広がる話題のポイントを掬い上げ、場に投げ返す。興味深い話題を反復し、再提案する。この時間の流れは、どこか音楽やダンスの即興セッションとも共通する感覚や技術だとも感じました。「臨床哲学」と名付けられた所以は、この即興的な時間の流れにもあるのだと思いますし、それでは言語/非言語の即興的対話の違いは何だろうかと、年頭からアートミーツケア学会分科会での宿題となっている「問い」をあらためて考える機会にもなりました。臨床哲学の対話にはコトバで音風景を紡ぐような、専門性を越えた調和の世界を目指すところがある。誤解なきように言えば「調和」とは「同調」ではなく、多様性が生き生きとありのままに存在する相互関係の世界です。それは民主主義の基本でもあり、「体験して」身に着けるものだということもわかってくる。サウンドスケープを学ぶサウンド・エデュケーションと同様の考え方です。
今回は「いのち」という壮大なテーマでしたので、当然「正解」がある訳ではありません。しかし、限られた時間の中で学生さんたちの若々しく真剣な思考を「きく」ことから、まずは自分自身の「いのち」が今どのような場にあるのか、また年齢を重ねた思考そのものの変化にも気づく貴重な体験だったと思います。思考は、あるいは「いのち」そのものは、人生の経験に比例して「変化」するのだと。そして自身の「変化」は、自覚よりも他者の存在を「きく」ことで気づく方が大きいものかもしれないと思いました。

寺田先生にお伺いしたところ「進行役」は哲学者でなくても構わないそうですが、その素養や知識はあった方が望ましいということでした。筆者の感想からも「対話の時間」を深めるためには、進行役にその即興的なプロセスを楽しめる「度量」が必要だと感じました。まずは「誘導しない」「諭さない」「押し付けない」。ある意味、最も「きく力」を必要とされるのが「進行役」であることは間違いありません。

□以下は、最初に提示された臨床哲学カフェの「3つのルール」です。一見簡単なようでいて実はなかなか難しい。「生きる知恵」とも言える大変興味深い内容でしたので、共有したいと思います。
1)人の話しは最後までよく「きく」こと ⇒自分の思考を深めるため。

2)自分のコトバで話すこと。⇒過去の哲学者の言葉を引用しても構わないが、身体を通して理解してから使うこと。

3)自分のコトバ(思考)は変わることがあることを知ること。⇒その変化を「楽しむ」こと。自分は「正しい」と思いこまない、押し付けないこと。

 

□街中で開催される臨床哲学のカフェ(カフェフィロ)に参加したい、また開催してみたいとお考えの方は、以下のサイトもご参照ください。(ササマユウコ 記)

http://www.cafephilo.jp

話題作・聾者の音楽映画『LISTEN』アフタートークに出演しました。

5月14日より渋谷UPLINK(アップリンク)で上映がスタートした話題の映画『LINSTEN』。聾者の監督おふたり(牧原依里さん、雫境さん)とともに代表ササマユウコが、サウンドスケープ哲学を研究する音楽家の立場からアフタートークに出演しました。

□詳細は
ササマユウコのブログ『音のまにまに』をご覧ください。

泥沼コミュニティ主催「ホーム/アンド/アウェイ」が終了しました。

1日よりアートラボはしもとで開催していた泥沼コミュニティ主催「ホーム/アンド/アウェイ」が終了しました。嵐の後の静けさ。今回、路上観察学会分科会に素敵な機会を作って頂いた泥沼の皆さん、足を運んで下さった方々、興味深い他の参加アーティストの皆さま、ありがとうございました。

当初は二階モデルルームで「はしもとの音さがし」を展示予定でしたが、急遽シアターに変更となったことで、今回は少し作品性を出してみました。

展示したサウンドは、2月28日に泥沼さんや応募された皆さんと歩いた橋本4箇所(アリオ、神明大神宮、相原高校、商店街)の音を、実は少し「空耳」にして再構築しています。いつも耳にしている日常の音風景のようでいて、どこにも存在しない非日常の音です。そして時おり訪れる「無音」に偶然出会えた人は、そこに「沈黙」をききます。サウンドスケープ哲学から橋本の街を捉え直すという企画の意図が上手く伝わったかどうかは微妙ですが(笑)、泥沼の皆さんと一緒に歩かなければ、路上観察学会分科会から橋本のサウンド・インスタレーションやZINEが生まれることは無かったかもしれません。「歩く芸術活動」の新たな可能性を感じる経験でした。巡回展も企画中とのこと、また引き続きどうぞよろしくお願いします。(ササマユウコ記)

 

 

 

泥沼コミュニティ主催『ホーム/アンド/アウェイ』関連展示

『はしもとの空耳〜その音風景は内であり外である』(ササマユウコ×西郷タケル)

ZINE「路上観察学会分科会通信0号 橋本篇」

(編集・デザイン 鈴木健介

執筆: 鈴木健介、山内健司、ササマユウコ)

 

○路上観察学会分科会有志メンバー(西郷タケル、ササマユウコ、鈴木健介、山内健司・・五十音順)

 

4月3日関連トークイベント
なぜ都市郊外を歩くのか?」

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能楽師・柏崎真由子さんのワークショップに参加しました

美大出身らしくお手製の’教材’で解説してくれました。
美大出身らしくお手製の’教材’で解説してくれました。

相模原市在住で、神楽坂の矢来能楽堂を拠点に活躍する金春流シテ方(主役)の能楽師・柏崎真由子さん。4月16日に橋本公民館で開催されたワークショップに参加しました。
東京造形大在学中に伊藤キムさんの「階段から転がり落ちる」授業で身体表現に目覚め、能の道に入ったという異色の経歴の持ち主です。美大出身らしく能舞台の死生観や宗教観を視覚的にも興味深く解説して頂きました。鍛えられた謡や舞を身近に感じながら一緒に体験する時間は、自らの身体を通して能の表現に触れる貴重な機会でした。

1000年の時を生き抜いた芸術には、決して穏やかではない歴史の中で培われたしなやかな強さや普遍性、何よりユーモアがあります。大地や社会が不安定な時代にこそ先人たちの知恵の結晶である古典が教えてくれることは多い。「能はシュールなんですよ」と柏崎さん。確かに時空を超えた破壊力のあるストーリー展開や、旅から生まれたミニマルな舞台装置、ある意味で前衛的な音楽は、観るものの想像力を豊かに刺激し幽玄の世界へと誘います。若い人にこそぜひ体験してもらいたい古くて新しい舞台芸術だと思いました。内/外のサウンドスケープ哲学とも通じる舞台の世界観にも惹かれます。

(ササマユウコ記)

舞台の立ち姿も絵になります。
舞台の立ち姿も絵になります。
体験ワークショップ。まずは扇子の使い方から。
体験ワークショップ。まずは扇子の使い方から。


第2回音楽×弘前の哲学カフェ「’きこえない音’は存在するか?~花のひらく音をきく」開催しました。

去る4月9日に第2回音楽×弘前の哲学カフェ「’きこえない音’は存在するか?~花の開く音をきく」を開催しました(コネクト主催)。

 

音楽の専門知識は特に必要としない高校生以上を対象とした企画でしたが、今回はプロの演奏家や音楽療法、ダンスや演劇などの芸術教育に携わる方を中心に、比較的専門性の高い方たちのご参加となりました(前回のリピーターもいらっしゃいました)。
今回のように「哲学(コトバ)と音楽(オト)を結びつける場」を実際につくってみることは、哲学カフェとしては未知数でしたが、結果として専門家たちが日々「当たり前」に関わっている「音」について立ち止まり、コトバを介して考えてみる機会になったかと思います。終了後に同じ会場で開かれた懇親会では、アルコールを片手にフラットな関係性が生まれ、さらに自由な雰囲気での意見交換の場が生まれていました。今回はむしろここに向かっての「哲学カフェ」だったと感じています。

前述の通り、サウンドスケープ研究の弘前大今田研究室らしく、今回の試みは「コトバとオト」をつなげた「哲学音楽」に迫ったことにあります。通常の「哲学(コトバ)の場」を想像した方には、シェーファーの思想・哲学とは何かを実際に耳から体験して頂く目的もありました。ですから、今回ご協力を頂いたストリングラフィのスタジオ(Studio EVE)は、音が糸電話で視覚され主旨と非常によく合った会場となり幸運でした。実際に、きく人の耳によって様々な音風景が浮かぶ鈴木モモさんの奏でる(オト)をきく時間が加わることによって、「聴覚と視覚」「コトバとオト」をつなぎながら、サウンド・エデュケーションの課題の「ねらい」や音律と哲学の関係性にも、ぐっと近づくことが出来たのではないかと思います。その中で、前半は今田匡彦先生からご著書の『哲学音楽論』『音さがしの本』を下地にした哲学的視座(存在論、認識論)の基本的なレクチャーを、後半は「音さがし」の課題にもある『生まれてから最初にきいた音』を取り上げ、皆さんの「音(耳)の記憶」を手掛かりに「きこえる/きこえない」について考える場となりました。

ところで、なぜ今ふたたび音楽に「哲学(考えるコトバ)」が必要なのでしょうか。

哲学はロゴス(コトバ)の学問ですから、音楽の側からは常に埋めきれない、表現されない「ジレンマ」がつきまといます。そして一方で「コトバにならないことを音にするのが音楽である」と、コトバと距離を置いた考え方も存在します。しかし社会とつながるためのコトバを持たないと簡単に「自粛」されてしまうことも、2011年の辛い経験から身を持って知っています。

かつてリベラルアーツとして存在した「音楽」という西洋学問に実際の「オト」は鳴っていませんでした。例えば、ピタゴラスの説く「宇宙の音楽(ムジカ・ムンダーナ)」は天文学や幾何学とともにあり、「きこえない星々の音」について考える哲学(考え方)でもありました。「音楽」は現代の私たちが考えるように歌ったり、演奏するものではなかったのです。しかし明治の開国で慌てて西洋音楽を輸入した日本の音楽教育には、この哲学がすっぽりと抜け落ちています。

「私」を表現するのではなく、世界に耳をひらき「世界の調和」とは何かを問う「音楽」の存在を知る。米ソ冷戦による核の脅威や環境破壊が進む1970年代の世界に向けて、シェーファーは著書『世界の調律』の中で警告を込めて特にこの「調和」の重要性を示唆します。専門的なヴィルトーゾ教育を批判し、音楽教育を「全的教育」と捉え直し社会にひらくことを目指しました。しかし音や音楽がコトバに吸収されてしまっては本末転倒です。ですからシェーファーは、独自の音楽教育テキスト『サウンド・エデュケーション』の100の課題によって「耳をひらく哲学」の実践をさまざまな角度から提示しました。そしてこのテキストを「正解」とするのではなく、使い手が自由にアレンジすることを望んでいます。

コトバとオトが「良い関係」を築くことが出来れば、お互いにとって相乗効果が生まれると考えます。何よりお互いの「違い」を知ろうとする姿勢は音楽教育だけでなく、社会全体、生き方の姿勢すら変えていきます(シェーファーはこれを「内側からのサウンドスケープ・デザイン」と呼んでいます)。今回のように、特に「音/音楽」や「教育」に関わる専門家たちが、忙しい日々の流れの中で少しだけ立ち止まり、コトバを分かち合いながらオトについて考える場はさらに必要となるかもしれません。

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「ホーム/アンド/アウェイ」関連企画。路上観察学会分科会×泥沼コミュニティ座談会「なぜ都市郊外を歩くのか?」@アートラボはしもと


泥沼コミュニティ×路上観察学会分科会座談会(写真は準備中)。個性豊かな若者たちにもご参加頂いて、2時間の予定が2時間半。終了後も話が尽きない密な時間となりました。内容としては、今年に入って3回に渡って活動した「橋本コラボ歩き」を写真、スケッチ、音の記録等で振り返りながら、参加者それぞれの「都市郊外論」を思考する展開となりました。
 まずは「ホーム/アンド/アウェイ」というタイトルに込められた意味を考えてみました。新興住宅地と古い農地が混在する橋本のような都市郊外は、「ホーム」でもあり「アウェイ」でもある。それぞれが「アンド」でつながるようでいて、どこか「/」で分断されているという感覚が浮き彫りになります。普段は見えないけれども蓄積されている時間の中を旧住民・新住民・訪問者が共に歩くことで「街の記憶」が共有される。その境界に新しい風景が見える体験を語り合いました。

「なぜ都市郊外を歩くのか?」。その目的を探ると、結局は「ひと」に行き当たります。騒音を含めた環境音は「人」が活動している証でもある。町を構成しているのは建物ではなく、やはりその中で活動する「人」。点在する人や場をつなぐように自分の身体を使って「歩く」活動は、最もシンプルで奥深い「知る」ための行為です。それぞれの「まちの歩き方」を共有することは、他者の感性を知ることでもあり、見慣れたはずの風景に誰かの時間や記憶をフィルターのように重ねてみることでもある。そこから新しい風景がみえてくる「日常の再発見」こそ、アートの本質であることにも気づくのでした。

●「ホーム/アンド/アウェイ」@アートラボはしもと/solid&liquid MACHIDAは17日まで。会期中、路上観察学会分科会ではサウンド・インスタレーション「はしもとの空耳〜この音は内であり外である」展示中です。

 

●関連ページはこちらをご覧ください。

ZINE『路上観察学会分科会通信 0号』橋本篇も無事に出来上がりました。

 

アートラボはしもと、solid&liquid MACHIDA、アゴラ劇場ほかにて配布予定です。

(編集・デザイン 鈴木健介

執筆・ササマユウコ、山内健司、鈴木健介)

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空耳図書館のはるやすみ「きこえる?はるのおと」を開催しました。(平成27年度子どもゆめ基金助成事業)

昼と夜が同じ長さになる春分の日。前日には町田の桜も開花宣言。まさに「春のはじまり!」となった特別な一日に「空耳図書館のはるやすみ」を開催しました。(和光大学ポプリホール鶴川3F エクササイズルーム)
今年度は午前/午後ともに多くの応募を頂きましたが、特に午前は昨年のリピーターさんで埋まり、一年ぶりに子どもたちと再会!その成長ぶりを前に感慨深いものがありました。何より「時間をパッケージ化しない」ことを目的にした、実験的&即興性のある内容でしたので(しかも初回は手探りなことも多く)、再び足を運んで頂けたことは大きな励みとなりました。

空耳図書館は「ちょっと不思議な読書会」と名付けられ、文字のない絵本、オノマトペやナンセンス、どちらかと言えば感覚的で五感を刺激するような内容の絵本を題材にしています。
きれいな絵の本はそのまま「舞台セット」に見立てたり、楽譜のように解釈することもあります。時にはその世界をはみ出して音や身体を使ってどこまであそべるか、そこに生まれる「空耳」(想像力)を刺激していきます。「指導」ではない声掛けをしますので、最初は戸惑うお子さんもいらっしゃいますが、自分が動いたり反応することをアーティストが丁寧に掬い上げ、その場の流れや空気が変わっていくことがあると気づきだすと、いつの間にか夢中になって参加しています。いつもは注意されたり、怒られたりするようなことも「それ、いいアイデアだね!」と褒められたりする場面では、本人以上に保護者にとっても新しい気づきがあるようです。

出演者たちは大きな「流れ(決め事)」を把握していますが、いちばん大切にしているのは「目の前にいる人たちとの関係性」です。そこにいるすべての人たちが対等ですし、もちろん筆者も含めた出演者同志もノンバーバル・コミュニケーションを取りながら、次にどう動くかを考え、即興的なセッションには参加者も気軽に入れるような雰囲気をつくります。ただし今回のような0歳から5歳の異年齢交流の場合、年長さんにはあえて「役割」を担ってもらい、赤ちゃんとの「線引き」は明確にあってもよかったのかもしれません。ここは、まだ試行錯誤の段階です。さらに昨今の「評価」や「成果発表」を前提にした「学校型」のワークショップから一度アーティストを解放して、彼らの内にある本来のクリエイティビティや想像力を参加者と自由に交感してもらう場としてもひらき、それを感じ取る子どもたちの生命の輝きは、引き続き大切にしたいと思っています。
そしてもちろん、この実験が可能になるのは、講師のアーティスト(音楽家・橋本知久さん、ダンサー/振付家 外山晴菜さん)が、国の内外で経験を積んでいる高いスキルや即興性を持った方たちだということです。その経験が下地にあるからこそ、一見’でたらめで’予測のつかない魅力的な世界が生まれていきます。

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「空耳図書館ミニ」。ベビーフェスタに参加しました@おださがプラザ

「空耳図書館ミニ」からはササマユウコの「音と耳のおはなし」に加え、10時の回には相模原在住の橋本知久さん(音楽家/アトリエ・ラーノ代表)、13時には外山晴菜さん(ダンサー/振付家)も遊びにきてくれました。

総勢60組以上?の赤ちゃん連れパパママ親子が、「ブックチャンス」「ベビーダンス」「布絵本」「わらべうた」などをツアー形式で楽しみました。絵本を通して、おとなと赤ちゃんが柔らかにつながる時間。「空耳図書館ミニ」の時間では、「耳の想像力=空耳」を体験して頂きながら、芸術体験の入り口としての絵本の可能性、非言語コミュニケーション、そして「きく耳」の大切さについて、少しでも気づいて頂けるひとときとなったら幸いです。
実施日 2016年3月6日(日)
主催:認定NPO法人らいぶらいぶ  共催:相模原市民文化財団
会場:おださがプラザ
らいぶらいぶの記事はこちら→


泥沼コミュニティ×路上観察学会分科会コラボ企画「みんなのまちの歩き方」@アートラボはしもと 実施しました。

泥沼コミュニティ×路上観察学会分科会「みんなのまちの歩き方」@アートラボはしもと。充実の6時間!が無事に終了しました。演劇、美術、音楽など、各分野で活躍する皆さんにご参加頂けた「大人の時間」だったと思います。「とりあえず、一緒にあるく」とジャンルの壁も無理なく超えられ、普段とは違う顔合わせから多彩で豊かな世界、何より20代から50代のフラットな関係性が生まれました。

今回初めて試みた「気ままスケッチ」×「サウンドウォーク」(ききあるき)。目と耳それぞれで同じ空間を捉え直してみると、新たな世界が立ち現れる。その発見や奥深さも感じて頂けたことも嬉しかったです。

左の写真は「他者の世界を知る」発表の様子。ここに向かって歩いてきた大切な時間です。まさに本日のタイトル「みんなのまちの歩き方」が披露され、共感あり笑いあり、感動ありドラマあり、そして「橋本」から日本の未来図を探すような気づきあり、と盛りだくさんで感慨深いひと時となりました。
普段は「アウトプット」の現場が多い芸術家やその関係の大人たち。またそれぞれの場に、ここでの時間から何かを持ちかえって頂けたら幸いです。

泥沼コミュニティはAFF(アサヒアートフェスティバル)2016に採択され、3月20日~21日に東京都墨田区のアサヒ・アートスクエアにて活動展示が予定されています。
また4月1日からは、アートラボはしもとにてこの1年半の活動報告会が展示され、路上観察学会も橋本の音風景やZINEの作成で参加予定となっています。また詳細はご報告いたします。
「歩く」ことから人やまちがつながる可能性。そのプロセスを広く皆さんに提示出来ればと思っています。(ササマユウコ 記)

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第2回「キクミミ研究会~身体と音の即興的対話を考える」

ダンサー/体奏家・新井英夫さん×代表ササマユウコのコラボ企画「キクミミ研究会~身体と音の即興的対話を考える」。昨年12月に第一回を実施し隔月で展開しています。
前回は「鈴」や「新聞紙」を媒体(メディア)にした非言語コミュニケーションを試してみました。今回はまずコトバでの「対話」を3時間以上!そして、紙コップとピアノ、身体を使った非言語の時間を作ってみました。

自らの活動や現場で感じていること等を他者に対して「コトバ化」してみる。また今の自分に至ったプロセスをふり返ってみることで、「今なぜ私はこの活動をしているのか」、その輪郭がよりはっきりしてくると思いました。それはおそらく他者に「伝える」ことを目的にコトバ化しているからだと思います。
新井さんとはほぼ同世代なので、子どもの頃の社会の空気感、また「芸術」の在り様の変遷なども社会事象と共に追いながら、お互いが生きてきた時間、「現在と過去は何が同じで、何が違うのか」を再認識しながら、ずっと続けていることで逆に見えづらくなっている「時の流れ」を意識しました。そして「非言語」の中に何を落とし込んで次世代に伝えていくかを模索しました。

今回使用した「紙コップ」は縦方向にも空間軸がつくれ、また床の材質によっても多彩な響きが生まれます。転がした時に自分の思った通りにはならない、しかもすぐに止らない「余韻」のある動きを見せるところも面白いです。日常にある何気ないモノから不思議な世界がたち現れてくる。「ワクワクする」生きた感覚です。
そして非言語コミュニケーションの「オト」は、響き(和声)やリズムのみならず、「静寂=間」がとても生きてくる。一方通行ではない、音楽に合わせて踊るのでも、踊りに合わせて音楽を付けるのでもない音と身体の「対等な関係性」を探ります。

次回はCD「生きものの音」を録音した調布「森のテラス」での実施を予定しています。外につづく空間で、森の音を聞きながらどんな「対話」が生まれることでしょう。
そしてこの研究会、Closedではもったいないクリエイティビティの高さがありますので、いずれ若い世代に向けて場をひらいていきたいと思います。
(ササマユウコ記)


東京迂回路研究:もやもやフィールドワーク分析編第4回「〈表現〉するとはどういうことか~非言語コミュニケーションを通して考える、東京迂回路研究」に参加しました。(1/23)

東京迂回路研究とは・・社会における人々の「多様性」と「境界」に関する諸問題に対し、調査・研究・対話を通じて、‘生き抜くための技法’としての「迂回路」を探求するプロジェクト。特定非営利活動法人「多様性と境界に関する対話と表現の研究所」によって運営されています(配布資料より抜粋)。

この活動は、アートミーツケア学会ともつながり、昨秋の大分大会では筆者も彼らの「哲学カフェ」に参加しました。また現在、ダンサー新井英夫さんとのワークショップを実施している横浜の福祉作業所カプカプ所長・鈴木励慈さんも理事を務めています。若い3人のメンバーは、臨床哲学、音楽療法、アートマネジメントといったそれぞれの専門性を背景にしながら、「新しい社会、新しい暮らし、新しい創造性」の可能性を「迂回路」(もうひとつの道)の中に探しています。ひとつの「正解」に突き進もうとする世界に危機感を感じ、世界を「耳」から捉え直して多様性を与えたシェーファーのサウンドスケープ思想との共通性も感じていましたし、何より今この時代を生き抜こうとする静かで熱い意志にも共感を覚えました。
今回のもやもやフィールドワーク分析編第4回では、「コミュニケーションとは何か?音楽やアートはなぜ人間にとって重要なのか?」と、同じく生きることを真摯に問い続けている芸術社会学者の中村美亜さん(九州大学)をゲストに迎え、最新の社会学や認知学の研究成果を参加者全員で共有しながら、〈表現する〉とはどういうことかについて、実に3時間にわたっての対話の時間が生まれました。今回は特に、自分にとって当たり前に使っていた〈表現〉というコトバが、実は参加者それぞれの立場や背景によって微妙に解釈が違い、その内と外の「ズレ」が浮き彫りになっていく興味深い3時間だったとも言えます。例えばアートプロジェクトやワークショップの現場において何か問題が起きるとき、そこで使われているコトバの認識や解釈の「ズレ」が要因となることが多々あるはずです。〈表現〉について考えたい、という同じ目的をもって集った人たちの間でもこんなに違う、ということが何よりの発見でした。
また「現場」から生まれたコトバには実感が伴い、とても力強い印象を残します。もちろん内容の是非や賛否についてはまた別の問題ですが、とにかく「身体を通したコトバ」にはある種の生き抜く力、生命力がある。その「コトバの力」に飲み込まれずどう対峙し、関係性を築くか。時には身体表現、感情表現、自己表現、芸術表現、言語表現など、「〇○表現」と但し書きが必要な場合もある。そしてその〈表現〉には具体的な「目的」があるのか、ないのか。その一方で「表現しない」という表現は可能だろうか?などなど、時には自問自答の迷宮に入りながら、「使い慣れた」コトバに意識を向けることで立ち現れてくる「想定外」が面白いと思いました。ある人が口にした〈表現〉と私の〈表現〉は同じか、違うか。時には「もやもや」しながら、でもとりあえず「きく」ことを諦めない。オープンに、しかしお互いの「ズレ」はそのままに、まず誠実にその時間を共にする。すると「ズレ」はいつしか「場」の多様性となり、自分の内にあったコトバも解きほぐされて外にひらかれていくのを感じました。
SNS等で簡単に「つながる」ことは出来ても、自分の「声」で他者と対峙し、ひとつのテーマをじっくりと語り合う経験は、実はどんどん減っているのだと感じます。だからこそ若い世代によって「対話」の場がつくられる。何よりもまずその動向に「希望」を感じるのでした。(ササマユウコ記)