1993年の開講以来、20年の歴史を持つまちだ市民大学HATS「まちだの福祉」講座。音楽療法ボランティア「歌う♪寄り添い隊(旧メロディー)」は、2011年度通年講座「清風園コース」※の修了生サークルです。現在は第一期メンバーから新しい顔も加わって毎月第2/第4木曜日に活動されています。今回は音楽療法のプログラム内容ではなく、人生の後半にふとしたきっかけで「音楽」と関わることになった皆さんと音楽との「関係性」に注目して取材をさせて頂きました。
メンバーは「もともと音楽が好きだった」方や、「どちらかと言えば苦手だったけど、仲間がいたから参加した」方など、参加動機も音楽的経験値も、年齢も様々です。もちろん音楽的な好みも違う。そのメンバーを緩やかにつなぐのもまた音楽のチカラです。
活動は、まず参加する皆さんを上階の特養フロアに迎えに行くことから始まります。現場は先生のピアノ弾き語りを中心に進められ、メンバーは参加者の車いすに寄り添いながら、目線を合わせ、時に背中に手を添え、一緒に歌い、楽器を支え、笑顔を向け、ゆっくりと優しく声をかける。その合間に連携して先生をアシストし、リーダーの冨田さん(写真後列 左端)は常に全体を見ながら、絶妙なタイミングで手拍子や合いの手を入れ「雰囲気」をつくる。メンバー全員でひとつの「音楽的な時間」を作り出していきます。先生の「音楽(時間)」を止めない配慮、何より認知症等を抱える方たちが安心して参加できる「雰囲気」づくりは、このボランティア活動の重要な役割と言えるでしょう。
活動後のメンバーへのインタビューでは、「そもそも音楽とは何だろう」という、研究者にとっても根源的なテーマにまで至りました。ただ寄り添って一緒に歌う活動の繰り返しには、どんな「意味」があるのだろうか。歌にまつわる「記憶」の多様性の発見。表面上の反応がなくても確かに相手と「つながった」と感じる瞬間。言葉にできない、「音楽」が持っている不思議な共感覚。それはいったい何だろうか。皆さんが活動の中で感じている様々な’問い’には、正解のない音楽(芸術)の永遠のテーマが見え隠れしていました。
音楽の専門教育を受けた人の中には、若くして音楽を「捨てて」しまう人もいます。「音楽する自分」を社会に活かす方法は多々あるはずですが、その発想が専門教育から抜け落ちてしまうことも珍しくありません。芸術のために、自分自身のために、高みをめざし、挫折する。秀でた才能以外は価値がないと思い込み/込まされ、早々に道が閉ざされる。ひとりの’天才’を求める20世紀型の専門教育です。しかし芸術はスポーツではなく、演奏家はアスリートではありません。一生を通して向き合っていくものです。特に高齢化社会を迎えた今は、演奏家や芸術家の在り方も大きな転換期を迎えていると感じます。
そして都市郊外の住宅地の高齢者施設の中では、まさに芸術の真髄に触れながら、自然体で音楽と向き合う普通の人たちがいる。もしこの「寄り添い隊」が若い専門家集団だったら、この柔らかな空気感や音楽時間は生み出せないかもしれない。音楽や参加者との緩やかな相互の関係性は、厳しい練習の成果ではなく、日々の暮らしと共に年を重ねながら、いつしか自然と築かれていくものかもしれません。音楽(芸術)はまさに「生きるための知恵」だと思うのでした。(その2へ)
※現在「清風園コース」は開講していません。
〈補足〉
ちょうどクリストファー・スモール『ミュージッキング~音楽は〈行為〉である』(水声社)の翻訳が出版されたのが、この「寄り添い隊」が誕生する少し前の、2011年7月のことでした。「音楽」を「音楽する」という「行為」として捉え直し、「社会の理想的なつながりを学ぶための活動」と位置づけた興味深い内容です。スモールが提唱する「誰もが音楽的な社会」。それは、弱い人や多様性を自然に受け入れた個人が成熟できる社会のことなのです。 (ササマユウコ)
〇取材協力ありがとうございました:
社会福祉法人賛育会 第一清風園様
(株)リリムジカ ミュージックファシリテーター 塚本泉先生(写真 前列左端)