去る4月9日に第2回音楽×弘前の哲学カフェ「’きこえない音’は存在するか?~花の開く音をきく」を開催しました(コネクト主催)。
音楽の専門知識は特に必要としない高校生以上を対象とした企画でしたが、今回はプロの演奏家や音楽療法、ダンスや演劇などの芸術教育に携わる方を中心に、比較的専門性の高い方たちのご参加となりました(前回のリピーターもいらっしゃいました)。
今回のように「哲学(コトバ)と音楽(オト)を結びつける場」を実際につくってみることは、哲学カフェとしては未知数でしたが、結果として専門家たちが日々「当たり前」に関わっている「音」について立ち止まり、コトバを介して考えてみる機会になったかと思います。終了後に同じ会場で開かれた懇親会では、アルコールを片手にフラットな関係性が生まれ、さらに自由な雰囲気での意見交換の場が生まれていました。今回はむしろここに向かっての「哲学カフェ」だったと感じています。
前述の通り、サウンドスケープ研究の弘前大今田研究室らしく、今回の試みは「コトバとオト」をつなげた「哲学音楽」に迫ったことにあります。通常の「哲学(コトバ)の場」を想像した方には、シェーファーの思想・哲学とは何かを実際に耳から体験して頂く目的もありました。ですから、今回ご協力を頂いたストリングラフィのスタジオ(Studio EVE)は、音が糸電話で視覚され主旨と非常によく合った会場となり幸運でした。実際に、きく人の耳によって様々な音風景が浮かぶ鈴木モモさんの奏でる(オト)をきく時間が加わることによって、「聴覚と視覚」「コトバとオト」をつなぎながら、サウンド・エデュケーションの課題の「ねらい」や音律と哲学の関係性にも、ぐっと近づくことが出来たのではないかと思います。その中で、前半は今田匡彦先生からご著書の『哲学音楽論』『音さがしの本』を下地にした哲学的視座(存在論、認識論)の基本的なレクチャーを、後半は「音さがし」の課題にもある『生まれてから最初にきいた音』を取り上げ、皆さんの「音(耳)の記憶」を手掛かりに「きこえる/きこえない」について考える場となりました。
ところで、なぜ今ふたたび音楽に「哲学(考えるコトバ)」が必要なのでしょうか。
哲学はロゴス(コトバ)の学問ですから、音楽の側からは常に埋めきれない、表現されない「ジレンマ」がつきまといます。そして一方で「コトバにならないことを音にするのが音楽である」と、コトバと距離を置いた考え方も存在します。しかし社会とつながるためのコトバを持たないと簡単に「自粛」されてしまうことも、2011年の辛い経験から身を持って知っています。
かつてリベラルアーツとして存在した「音楽」という西洋学問に実際の「オト」は鳴っていませんでした。例えば、ピタゴラスの説く「宇宙の音楽(ムジカ・ムンダーナ)」は天文学や幾何学とともにあり、「きこえない星々の音」について考える哲学(考え方)でもありました。「音楽」は現代の私たちが考えるように歌ったり、演奏するものではなかったのです。しかし明治の開国で慌てて西洋音楽を輸入した日本の音楽教育には、この哲学がすっぽりと抜け落ちています。
「私」を表現するのではなく、世界に耳をひらき「世界の調和」とは何かを問う「音楽」の存在を知る。米ソ冷戦による核の脅威や環境破壊が進む1970年代の世界に向けて、シェーファーは著書『世界の調律』の中で警告を込めて特にこの「調和」の重要性を示唆します。専門的なヴィルトーゾ教育を批判し、音楽教育を「全的教育」と捉え直し社会にひらくことを目指しました。しかし音や音楽がコトバに吸収されてしまっては本末転倒です。ですからシェーファーは、独自の音楽教育テキスト『サウンド・エデュケーション』の100の課題によって「耳をひらく哲学」の実践をさまざまな角度から提示しました。そしてこのテキストを「正解」とするのではなく、使い手が自由にアレンジすることを望んでいます。
コトバとオトが「良い関係」を築くことが出来れば、お互いにとって相乗効果が生まれると考えます。何よりお互いの「違い」を知ろうとする姿勢は音楽教育だけでなく、社会全体、生き方の姿勢すら変えていきます(シェーファーはこれを「内側からのサウンドスケープ・デザイン」と呼んでいます)。今回のように、特に「音/音楽」や「教育」に関わる専門家たちが、忙しい日々の流れの中で少しだけ立ち止まり、コトバを分かち合いながらオトについて考える場はさらに必要となるかもしれません。
現在、特に地方の国立大学では「利益(経済)」に直接つながらない、もしくはすぐに経済効果の出ない学問(特に文系)は必要ないという声が上がり始め、実際に国策として改変が進んでいます。
筆者自身、東日本大震災で体験した「絶望感」から救われたのが「哲学」や「音楽教育」だった経験から、この考え方は短絡的ではないかと感じています。コトバやオトを使って「哲学」やリベラルアーツとしての「音楽」を考えることは、混乱する自分や世界(社会)を捉え直す大事なプロセスであり、それまでの生き方を見つめ、何より社会や人と「つながり直す」作業には必要不可欠でした。哲学的に学問(コトバ)を掘り下げることが、生きていく上でいかに大切な力になるかを、あらためて実感する貴重な体験だったと思っています。
生きることはそもそも、すべてが「利益」につながることでしょうか。道端に咲く花や満天の星空をみて心を動かすような体験は、すぐに何かの「役に立つ」でしょうか?桜の花は「目的」をもって咲かなくても、間違いなく毎年待ち望まれ、社会を幸せな気分にします。「毎年必ず咲く」という宇宙のリズムに包まれる安心感があるから、人は生きていられるのかもしれません。風の音や波のリズムにゆったりと耳をすます、目で見る経験を持たずに育った子供は、自然や地球、何より自分や他者の生命を愛おしいと感じる大人に育つでしょうか。「目的」や「利益」のみを追究する学問や社会は息苦しくないでしょうか?成果発表や評価をアーティストに求めがちな学校型ワークショップも同様の問題を抱えてはいないでしょうか。
「生きている」という実感は、燃えるような夕焼けに思わず足を止めるような、一見「ムダ」な時間にこそ潜んでいると考えます。
ご協力頂いた、ストリングラフィ(Studio EVE)主宰の水嶋一江さん、奏者の鈴木モモさん他、ご協力頂いたすべての皆さま、ありがとうございました。(ササマユウコ記)
出演者(情報は2016年当時のものです)
講師:今田匡彦(弘前大学教授 哲学博士)
1964年東京生まれ。弘前大学教授。国立音楽大学卒。サイモン・フレーザー大学教育学部修士課程修了。ブリティッシュ・コロンビア大学教育学部カリキュラム研究学科博士課程修了取得。1996年にカナダの作曲家M.シェーファーと共に出版した『音さがしの本~リトル・サウンド・エデュケーション』(春秋社 増補版2009)は音楽教育のみならず様々な分野のアーティストに影響を与え、現在も読み継がれている。2015年には『哲学音楽論~音楽教育とサウンドスケープ』(恒星社厚生閣)。弘前での実践紹介を交えて「音楽哲学」を提唱している。
音:鈴木モモ(ストリングラフィ奏者)
国立音楽大学教育音楽学部第II類卒業。幼少期に、ハンガリーの作曲家コダーイの創案した教育システム、コダーイシステムを主とした合唱団にて、ハンガリーの民謡や日本のわらべうたに親しむ。大学卒業後はアートギャラリーに勤務、後に2002年よりストリングラフィアンサンブルに参加、現在まで海外公演も含め数多くの舞台に立つ。また様々なアーティストとコラボレーションすることでストリングラフィの新たな可能性を探る試み「stringraphyLabo」を2011年から企画、主宰している。その他に自宅を開放したイベントスペース「minacha-yam」では口琴WSからアラスカ鯨漁のお話会まで様々なジャンルのイベントを開催。 http://minachayam.exblog.jp/
企画/進行:ササマユウコ
(音楽家・CONNECT/コネクト代表)
1964年東京生まれ。4歳よりピアノを始める。都立国立高校、上智大学文学部教育学科(視聴覚教育・教育哲学)専攻。2011年の東日本大震災を機に、弘前大学大学院今田匡彦研究室社会人研究生(2013年3月まで)。サウンドスケープ哲学から「内と外の関係性」をテーマに「空耳(想定外)をきく方法」を考えている。2014年秋に相模原市立市民・大学交流センター内に芸術教育デザイン室CONNECT/コネクトを設立。ワークショップ(音の散歩、空耳図書館など)、レクチャー(哲学カフェ)、学術研究、サウンド・インスタレーション等、「空耳活動」中。1999年から発表したCD6作品は現在N,Y.Orchard社より世界各国で聴かれている。 個人 http://bentenrecords.jimdo.com/
〇本日の参考文献
『世界の調律~サウンドスケープとは何か』(平凡社 1997)
『音さがしの本~リトル・サウンド・エデュケーション』(M.シェーファー/今田匡彦 春秋社 2009増補版
『哲学音楽論~音楽教育とサウンドスケープ』(今田匡彦 恒星社厚生閣 2015)
〇コネクトからおすすめ「空耳をきくための本」
『センス・オブ・ワンダー』(R.カーソン 新潮社 1996)
『グレープ・フルーツ・ジュース』(オノ・ヨーコ講談社 1993)
『呼び覚まされる霊性の震災学』(新曜社)
『「聴く」ことのチカラ~臨床哲学試論』(鷲田清一 TBSブリタニカ 1999) 『哲学用語図鑑』(プレジデント社 2015)