シンポジウム「障害とアートの現在~異なりをともに生きる」@東京大学大学院総合文化研究科・教養学部附属(UTCP)(10/9)

10月9日に東京大学大学院総合文化研究科・教養学部附属 共生のための国際哲学研究センター(UTCP)で、シンポジウム「障害とアートの現在~異なりをともに生きる」が開催されました。障害者を扱ったテレビ番組をめぐる「感動ポルノ」問題、2020年東京パラリンピックを見据えた「アールブリュット」政策をはじめ、現在の「障害の場にあるアート」について、この日はコネクトも縁の深いカプカプ所長の鈴木励慈さん、『目のみえない人は世界をどう見ているのか』著書・伊藤亜紗さん(東工大)の最先端の研究など、多角的な視点から「アートの現在」が語られた有意義な時間となりました。
※詳細は主催者HPをご参照ください。
 残念ながらこの日は午後からの参加だったため、シンポジウムそのものへのコメントは控えたいと思いまが、最前線のアカデミックな場でも、現在はこのようなシンポジウムが多く開催されていることをご紹介したいと思いました。場は基本的に「ひらかれて」いますので、アカデミズムに偏らず多様な意見が飛び交う「場」が当たり前に開かれていくことに、何より大きな意義があると思いました。コネクトの「障害とアート」の見解につきましては、先日のコネクト考察レポ6「アウトサイダー・アートを考える」もご参照頂ければと思います。

 ただひとつ気になっている点があります。それは「障害とアート」が語られる場において、実際に現場を託されることの多い「アーティスト」の視点、またはその仕事への評価が不在のまま議論が進むことがわりとよくあるということです。「生きるための技術」としてのアートは、アーティストにとっては「技術以上」のアイデンティティでもある。そこに対する配慮の無いまま、アートを「ツールとして役に立てる」「提供する」ことが当たり前のように要求される。それはアート/アーティストへの理解の足りなさ、「好きなことをやっているのだから」という暗黙のハラスメントと紙一重とも感じています。「障害とアート」は逞しさと同時に傷つきやすさも抱えた、実は非常にデリケートな場である。そこに携わる人たちには豊かな「想像力」やクリエイティビティが必要なのです。
 もちろん、アーティストは社会的な’弱者’とは言えないかもしれませんが、マイノリティであることは確かです。もともと何かしらの生きづらさを抱えていて、やっとの思いで見出したのがアート=アイデンティティだったりもする。それを単なる「技術」としてひと括りにされる。または「やりがい搾取」のような現場がある。「誰もが」ともに生きる社会を目指す場の「誰も」にアーティストが入っていない場合がある。しかも「障害」のある場にクリエイティビティを見出し、自身のアートを揺るがすことなく昇華できるようになるには、アーティスト自身にも時間や経験、あとはこれが最も大きいと思いますが「適性」が必要です。しかし厄介なのは、その「適性」とアーティストとしての「資質」が必ずしもイコールとは限らない。特にアートとしての「質」が問われていない現場では、そこに何が求められているのかが分からず戸惑いや不安が生まれる。それはアーティスト自身を成長させるきっかけとなる場合もあれば、アーティストも障害者も、どちらをも傷つけてしまうような危険性も潜んでいることを肝に銘じた上で、「アートと障害」に向き合わなければいけないと思うのです。
 2020年を前に、今後社会はアートに対して、ますます「役に立つ」ことを求めることでしょう。そこには「善意」という暗黙の圧力がかかっていないか。雇用形態として弱者にあるアーティストが「NO」と言えない状況に追い込まれていないか。アカデミズムは「研究対象」として他者のアイデンティティを利用してはいないか。常に自問自答を忘れないでいたいと思います。
 本来アートには、社会に対して「カウンター」としての視点を投げかけたり、時には「役に立たないこと」にも意味があると教えてくれる役割もあります。それは「障害」にとっても親和性の高い、素敵な「チカラ」になるものだと思います。だからこそアートそのものも、「役にたたなくても」大事な余白として受け入れられるような、柔らかな社会の雰囲気を大切にしたい。アート自身が多様性を失い、ひとつの目的に集約されるような現場を生むようなことは避けたいと思うのです。
 先日ノーベル賞を受賞された大隅先生もおっしゃっていました。「’役に立つ’という言葉が社会をだめにする」と。それは本当に科学もアートも同じ状況にあって、今の社会の空気に対する大事な警告と受けとめました。(ササマユウコ記)。