「きこえる/きこえない」の境界を越えて制作された舞台『残夏1945』を観ました。2015年の終戦70周年祈念に東京・広島・長崎で上演され、多くの要望に応えて内容をバージョンアップし再演された作品です。
この舞台の見どころは、史実である聴こえない世界から描かれた戦争の悲惨さや、わかりあえない母娘の再生物語にあります。それと同時に舞台の成り立ち同様に、聾者と聴者、きこえる/きこえないという「境界を行き来する人たち」のつながり方にもあると思いました。
この舞台に出演しながらプロデューサーも担う、主催のサインアートプロジェクト・アジアン代表・大橋ひろえさんは聾者の舞台俳優です。野﨑美子さんは30年近く前から聾学校の演劇にも携わる聴者の演出家、脚本の米内山陽子さんは聾者を両親に持つ聴者の劇作家です。舞台上にも聾/聴の俳優たちがいて、手話や文字、時には全身を使ってやりとりする姿や、思わず出てしまう「本音」のような台詞からは、この舞台が彼等の日常と地続きに生まれたというリアリティ、説得力がありました。音のある/なしの世界を行き来し、人と人が葛藤や衝突を乗り越えながら「わかり合う」ことを諦めないこと。時間を遡りつつ、聴こえる母、聴こえない娘の関係性が修復されていくプロセスに、聾/聴の関係なく殺される原爆・戦争の恐ろしさや、連なる生命の尊さが重なっていきます。その中で「境界を越える/越えない」を選択しながら助け合う人々。そこに生まれた確かな信頼関係こそが生きることの「希望」へとつながっていくのです。
米内山陽子らしいユーモアの効いた台詞の応酬や、ストレートプレイとパフォーマンスの境界にある美しいシーン、舞踏と芝居の境界を行き来する雫境の存在感も印象的でした。どこか無国籍な雰囲気の衣装や生演奏、時代性を排したミニマルな美術からも普遍性が生まれていました。
今回は開演ブザーの代わりに照明で合図があったり、スクリーンを使った文字案内、また上演前の舞台説明や音声ガイド、託児サービス等、最近注目されている公共施設の「アクセシビリティ(利用しやすさ、親しみやすさ)」を意識したバリアフリー公演であったことも記しておきたいと思います。障害に限らず、高齢化や多様性社会において、誰もが舞台や音楽を生涯において楽しめる仕組みづくりは、公共劇場の最優先課題となることでしょう。今この時代の’新しい舞台作品’とは何か。そこから社会を変えるきっかけも生まれたら素敵です。(ササマユウコ記)