「哲学カフェ」って何?
コネクトの今年のテーマは「考える=哲学する」です。特に空耳図書館で開催している「哲学カフェ」は専門知識が一切必要なく、誰もがいつもの言葉で自由に「対話」できることが魅力です。この点は、コネクトの根底にあるサウンドスケープの思考を学ぶ「サウンド・エデュケーション」とも親和性が高いと感じています。実際にコネクトでは音楽×哲学カフェのコンセプトで「即興カフェ」も開催してきました。
そもそもの「哲学カフェ」は90年代のパリで偶然始まりました。あるカフェで「哲学討論会」が開催されるとラジオが誤報したことで人が詰めかけ、そこに偶然居合わせた哲学者が始めたというエピソードが何ともパリらしいなと思います。一方で国内の「哲学カフェ」は「震災」を機に始まります。1995年の阪神淡路大震災後には無用とも思えた「哲学」を社会にひらく目的で、大阪大学臨床哲学研究室(鷲田清一ゼミ)からNPO法人カフェフィロが立ち上がった関西中心に、今度は2011年東日本大震災をきっかけに関東方面に、そして全国に一気に広がりました。ちなみに3月に「おとなの空耳図書館 やってみましょう!哲学カフェ」で進行役をして頂いた寺田先生(上智大学哲学科科長)を始め関東のカフェフィロ・メンバーも鷲田門下が主流です。ソクラテスとプラトンの時代から「対話」の師弟関係は音楽のそれとよく似ています。
少し個人的なお話をさせてください。筆者(コネクト代表ササマユウコ)は物心ついた頃からピアノや楽典の専門教育を受けましたが、西洋音楽の背景にある哲学を学んだ記憶がありません。明治以降に性急に導入された音楽教育には根幹にある哲学が抜け落ちていて、その問題が指摘され始めたのはつい最近です。筆者は音大ではなく普通大学で教育哲学と視聴覚教育を専攻し、卒業後は企業の専門職として映画、その後は出版、劇場と併行してCD制作を中心に音楽活動をしていましたが、やはり東日本大震災・原発事故が転機となり、その「音楽の哲学教育の不在」に気づきました。言葉の不在というか。
そこで2011年から2013年まで「音楽とは何か」を考えようと弘前大学今田研究室(サウンドスケープ、サウンド・エデュケーション)に籍を置き、同時に原発事故で避難した前任者の仕事を急遽受け継ぐかたちで、町田市教育委員会生涯学習部(市民大学担当)の仕事に携わりました。弘前は音楽教育の領域に「哲学」がベースにありました(今田先生は哲学博士)が、市民大学の4年間の現場では日々"哲学対話未満"の場を沢山経験しました。それもあって、2015年に弘前大学出張講座として「即興カフェ」の前身CONNECT+「音楽×やさしい哲学カフェ」を紹介しています。
音楽家の私が言うのは気が引けますが、この世は残念ながら玉石混合の「言葉」で出来ていることを痛感します。にも関わらず"言葉で考える場"が圧倒的に少ない。音楽の専門教育しかりです。2011年の「自粛」「絆」といった社会からの"言葉の津波"に音楽が翻弄された経験は、言葉より音楽を信じていた私の人生観を大きく変えた出来事でした。先述したように「哲学」や「芸術」そして「社会」や「自由」等の言葉は輸入・翻訳されてからまだ150年。使われ方や意味が曖昧で、正直よくわからない。だから今でも「哲学すること」「芸術すること」は暮らしから遠い印象がある。それは、もともと外国の考え方(言葉)なのですから当たり前なのです。明治から令和まで途中に大きな戦争や震災を何度も経験し生きていくのが精いっぱいの暮らしの中で、学校でもきちんと学んでいない「哲学」や「芸術」をどうして身近に感じることが出来るでしょうか。
しかしこうも考えます。「考えること」や「表現すること」は本当に特別なことでしょうか?芸術や哲学の世界に限らず、いつもの暮らしの中で実は誰もが当たり前にしていること、そこに名前が付いていないだけだとも思います。だからこそ、混乱した社会の中で「哲学カフェ」や「芸術ワークショップ」が時代を生き抜く知恵として広く受け入れられたのでしょう。
現在コネクトで進めている聾CODA聴プロジェクトに助成を頂いているアートミーツケア学会も、この関西の臨床哲学の流れにあります。ここでの研究会では音のある/ない世界の「境界」に集い、お互いの文化や言語の違いを認めながら哲学カフェのように「対話すること」を軸に進めています。芸術の中にある障害のある/ないを越えた世界を一般に広く提示することが、この先の多様な社会の小さな光になると信じています。
もちろん芸術や教育関係に限らず、もしPTAや自治会、会社の会議やサークル活動、親子関係など、暮らしの中にあるさまざまな「話し合い、考える場」がうまく回らないと感じている方がいたとしたら、是非一度どこかの「哲学カフェ」に参加してみてください。街中の喫茶店や公民館を始め、美術館や図書館、今はアクティブラーニングを視野に入れた小学校でも「哲学対話」が導入されはじめています。子どもたちは未来の社会ですから、あと10年もすればどの町にも「哲学カフェ」が当たり前に存在していることでしょう。その一方で今の大人たちは「哲学=考える」を学校できちんと教えてもらっていないのですから、「対話」を基本とする民主主義、「話し合い」がうまくいかないのは当たり前なのです。だからこそ、いつもの言葉で話して・聞いて・考える「哲学カフェ」が暮らしの中に当たり前にあったとしたら、何かが少しづつ変る気がしませんか?
「対話」は議論やディベートではありません。勝敗や優劣を競う場ではないですし、社会的な立場は関係なく誰もが安心して自由に発言でき、平等に扱われる場です。実はそのような場は社会や学校や家庭の中でさえ、ほとんど存在しないことにも「哲学カフェ」に参加すると気づくのです。では、その"自由"とは何でしょう?平等はよいことでしょうか。モヤモヤしながら、誰かと一緒に考えてみませんか?
[参加者募集中]
芸術・教育関係者に限らず、高校生以上どなたでもご参加頂けます。
おとなの空耳図書館『哲学カフェ入門Vol.2』
テーマ:『自由?』
日時:2019年10月13日(日)13時~15時
場所:相模原市立市民・大学交流センター(小田急線相模大野駅すぐ/第7回ユニコムプラザまちづくりフェスタ参加企画)
進行役:田代伶奈
参加費:おとな1000円、学生500円、高校生無料
◎お申込みフォーム
https://forms.gle/xY7S477AFcjhgeV9A
◎もしくはメール soramimi.work@gmail.com
件名「哲学カフェ」①お名前 ②緊急連絡先
企画・お問合せ 芸術教育デザイン室CONNECT/コネクト tegami.connect@gmail.com
ササマユウコ(音楽家・芸術教育デザイン室CONNECT/コネクト代表)
2014年から芸術と学術を「つなぐ・ひらく・考える」コネクト活動を実践中。サウンドスケープを「耳の哲学」に世界の内と外を思考実験しています。
1964年東京生まれ⇒4歳でピアノ・10歳で楽典を学ぶ⇒都立国立高校⇒上智大学文学部教育学科⇒セゾン文化総合職(映画)⇒レーベル主宰⇒弘前大学大学院今田研究室(サウンド・エデュケーション)・町田市生涯学習部市民大学⇒コネクト活動邁進中⇒イマココ
アーティスト名義:YukoSasama(Spotify,Ituneあり)