ところで「対話」って何でしょう?あらためて辞書で調べると「向かい合って話すこと、また、その話」と書かれています。あら、簡単(笑)。でもその簡単なことが日々なかなか上手くいかないから不思議です。
空耳図書館の「哲学カフェ」や即興カフェの「コトバのない対話|nonverbal-dialog」など、ここ数年さまざまな「対話のかたち」をつくって気づいたこと。それは聾CODA聴メンバー同志のアーティスト・コレクティブや、(自分が音楽家だからかもしれませんが)「音」での非言語対話の方が圧倒的に”わかりあえる”気がすることです。気がするだけかもしれませんし、その「わかりあえる」とは何か?というと、これまたなかなか言葉に出来ませんが、自分の内外に「嘘がない時間が生まれる」という感覚でしょうか。カプカプもそうですし、いちばん”その人らしいな”と思うのもたいがい非言語情報です。絵やダンスも含めて。詩も入るかもしれません。つまり”芸術の力”です。
例えば、その人の芸術には共感するのに、お互いの「言葉」がどうにもかみ合わず苦戦することがあります。特に私は「言葉にならないこと=音楽」を言葉にしようとすると無駄に話が長くなる(この文もか・・)。けれども、どんなに言葉を尽くしても結局たどり着けないのです。
この1ヶ月、ある音楽家と「対話プロジェクト」の「準備の対話」が続いています。会って話すのは問題ないですがメールが上手くいかない。負のループに陥りそうになり、いっそ言葉をやめて「動画」や「音」で対話を始めてみました。あらびっくり。色々すんなりいくではありませんか。今までどうにも掴めなかったアイデアがわかってくる。年月を隔てて同じ場所で同じ風景の写真を撮っていたりする。お互いに落とし込む表現は違っても世界の捉え方に共感があるのです。一方で、今まで吐きだした膨大な言葉は何だったのか途方に暮れる。はたして言葉は思考を越えるのでしょうか。世界のすべてを言葉にするなぞ、自分にはとても無理。
ところで、12月27日の聾CODA聴の「対話の時間」は異言語交流です。年の瀬なので簡単なゲーム形式でテーマを決め、試行錯誤も楽しみながら「音のある|ない世界」の「|」に集う時間にしたいと思っています。手話、音声のほかに「筆談」も使います。「文字」にはその人が現れ、「書く」という身体性、そして少人数で思考をシェアする時の合理性や同時性は、今までの実感として筆談が適しているからです(瞬時に絵や図式にもできる)。アナログ世代が中心ということもありますが、この協働プロジェクト(雫境/舞踏、米内山陽子/手話)では「身体表現」も大事にしています。
テクノロジーの進化で「対話の道具」は劇的に進化していくことでしょう。異言語/異文化を前提に「対話のかたち」も多様化する。けれども、人と人が「わかりあう」感覚はまた別の次元にあるはずです。言語/非言語どちらにしても、対話とは「向かい合って話すこと」。これ、やっぱり基本です。「何に」向かい合うか?そこを考える必要がありますが。そしてそこを助けてくれるのが「哲学」なんだろうと思っています。(ササマユウコ)