「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?~国立西洋美術館の自問自答は企画展のタイトルとして私たちにも問いを投げかける」
この問いを噛み締めながら会場に入るとすぐ、松方コレクションに関する資料が展示されている。実業家の松方幸次郎が大正から昭和にかけて築いた松方コレクションを母体とした上野の国立西洋美術館は、未来のアーティストを育てる場となることを願って設立された。しかし、同館65年の歴史においてその願いは果たされてきたのか。それを初めて検証するのが本展の目的である。
2001年に生まれた筆者は、松方コレクションはもちろん、本展の参加アーティストたちから見ても「未来」の人間である。アーティストではないが、大学で美術史を学び学芸員資格も取得した。そんな筆者の目には、この展覧会がアプローチが大きく異なる21人の作品で”未来そのもの”を提示するというよりは、多角的な未来への可能性を集めた博覧会のように思えた。
企画展の概要を読むと、国立西洋美術館には「過去を生きた、遠き異邦の死者の作品群のみが収められている」と書かれている。幼い頃から都内の様々な美術館を訪れてきた筆者にとっても、特に国立西洋美術館は過去の西洋美術を鑑賞する静謐な場所という印象が強い。実際に、本展まで現代アーティストをほぼ取り上げてこなかった同館の企画展は、歴史的な画家に関するものや、欧米諸国の美術館のコレクション展等が大半を占める。「今」と切り離された美術館という枠組みの中で、作品は初めから名画として、目指すべき偉大なものとして提示される。それを受動的に鑑賞していると、対象が大きすぎて、問いを感じたり考えたりする余地がなくなってしまう。
松方コレクションにとって「未来」である国内のアーティストたちが、西洋美術、そしてそれを収蔵する場と向き合いながら作品制作を行った本展は、過去との新たな関わり方を模索するものとも言える。
今回は、本展を通して筆者が特に関心をもった3人のアーティストを取りあげたい。
美術史とそれを辿る装置としての美術館という構造について考える上で、大正時代の架空の三流画家として作品制作を行っているユアサエボシは非常に興味深いと思った。存在しない画家の作品を美術館で鑑賞する。詳細な経歴ともっともらしい解説によって、大正期から現在までの時間の蓄積が感じられるような気がしてくる。もし、これらの作品がキャプションを伴わずに展示されていたら、疑うことなく現代アートだと思っただろう。誰が・いつ・どこで制作したかという情報は、作品の受け止められ方に大きく影響する。「美術館で作品を鑑賞すること」は、純粋に作品のみを観ることではなく、作品のバックグラウンドからストーリーを組み立て解釈することなのだろう。
美術館では展示解説やキャプションを必ず読むし、その知識に基づいて美術作品を鑑賞する。それによって作品への理解が深まる一方で、自分は作品の表層を見て解説の内容を《答え合わせ》しているだけではないかと感じることがある。作品を型に嵌めずに純粋な目で捉え直すためにはどうすればいいだろうか。
次に取り上げるのは、鷹野隆大によってIKEAの家具が置かれたモデルルームのような展示室である。室内には、鷹野の写真作品とともに、ゴッホやクールベの絵画がキャプションを伴わずに掛けられている。それらは空間に馴染んでいて、ここが美術館でなければインテリアのひとつとして見過ごしてしまいそうになる。しかし、それぞれの作品と向き合うと、その質感や存在感は量産されたインテリアとは大きく異なっていることに気づく。絵の具の盛り上がりや筆跡人間が試行錯誤しながら手で制作したからこその重み、生々しさがある。キャプションとホワイトキューブという装置を取り払って、「偉大な」西洋美術としてではない、「ただの絵」としての作品と対峙することで、作品が纏う雰囲気や質感を素直に受け止められた気がした。
最後に、作品の展示方法や空間を模索したものとしては、田中功起による、多様な人々が快適に鑑賞できる美術館を実現するための提案も興味深い。田中は提案の一つとして、車椅子や子どもの目線に合わせた展示を挙げている。筆者は学芸員資格を取得するための大学の授業の中で、日本の美術館・博物館等の多くは、身長150cmほどの人間を想定し目線が一定になるように資料を展示していると聞いた。様々な展示施設を見学した際には、どの館でも来館者の多くが見やすいであろう高さに資料を展示していると説明を受けた。そのため、高齢者や子供が多く訪れる施設では資料を若干低めに展示する場合もあるが、今回のように身長165cmの筆者が屈んでちょうど見えるほどの位置にするのは珍しい。多くの来館者が見やすい位置を基準に高さを揃えるという作品展示のマジョリティによるセオリーを反転させて、西洋絵画を低い位置に展示したのは画期的に思えた。筆者の幼少期を振り返ってみると、今でも印象に残っている作品はインスタレーションや大画面の絵画作品が多い。それは自分自身の興味や作品のインパクトによるものだと考えていたが、当時小さな作品は視界に入っていなかったのかもしれないと今回の展示を通して気づいた。
展覧会の最終章では、キャプションの中で冒頭の問いについて「Yesとは言えない」と学芸員によって結論付けられていた。過去65年を振り返って、「未来のアーティストが眠る部屋」だったとは言えない場が、これから先、未来を作り出していくことができるのだろうか、との自己批評は辛辣ではあるが共感もある。
西洋美術そのものに注目してみれば、新たな技法や主義は常に伝統や規範への反発、問いかけから生まれてきた。松方コレクションにも、所謂アカデミック絵画から、独自の技法や題材を模索した近代以降の画家の作品までが含まれている。この伝統と革新の歴史は、過去の作品が「未来のアーティスト」を育んできた歴史とも言える。どのような作品にも未来は常に眠っていて、それを呼び覚ませるか否かは場の作り方や見せ方、つまりキュレーション次第なのかもしれない。
しかし、パープルームや小田原のどかをはじめとした今回の参加アーティストたちの顔ぶれからも分かるように、国立西洋美術館にとって「未来のアーティスト」とは、油彩画を制作しているとは限らない日本人アーティストを指している。既に美術界では大量のデジタルアートが制作されるなか、美術館ではデジタルデバイスを利用した展示が増えていて、いつかは物理的な実体を持った美術が作られなくなる可能性もある。そのような未来が訪れたとき、過去の西洋美術からアーティストが得るものは、質量を持つ存在から感じられる制作者のエネルギーや生々しさなのではないだろうか。そう考えると、たとえ未来のアートがどのような形になっても、過去を保存する美術館という場は消えないのだと思える。21世紀生まれの「未来人」として、ここから国立西洋美術館が未来のアーティストたちが眠る部屋となりえていくのか確かめたい。
今井花(いまいはな)
2001年東京神楽坂生まれ。お茶の水女子大学哲学倫理学美術史コース卒業。在学中は学内向けフリーペーパー編集長や駒場演劇サークルの制作チーフを経験。図鑑とSF小説が好き。学芸員資格あり。