聾CODA聴 第2回境界ワークショップ研究会「対話の時間」を実施しました。

実施日時:2019年12月27日(金)14時~17時

会場:アーツ千代田3331

対話人数(メンバー含む):14名(満席)

内訳:聾者4名、中途失聴2名、聴者7名 CODA 1名)
※当日キャンセル(聾・聴各1名)

メンバー:雫境(聾、身体)、米内山陽子(CODA、手話)、ササマユウコ(聴、サウンドスケープ)

写真協力:外崎純恵(弘前大学大学院)

アートミーツケア学会青空委員会公募プロジェクト2019

(写真①)対話のための頭の体操「境界はどこに?」
(写真①)対話のための頭の体操「境界はどこに?」

【当日全体の流れ】

①主旨説明 ②「対話のための頭の体操~境界はどこにある?」③「対話のルールとテーマを決める」④「対話の時間」(手話×音声×筆談)⑤「対話の時間」の対話(ふりかえり、感想) 全約2時30分

【②対話のための頭の体操~境界はどこにある?」

参加者には事前アンケートで「参加理由」を伺っていました。聾者は「対話」そのものに、聴者は「手話や聾の世界」に興味があるという理由の違いが興味深かったです。聾者は常に聴者の世界に接していますが、聴者は聾者の世界に触れる機会がほとんどないという現状も見えてくる。今回は2017年から始まった研究会で初めて「音のある|ない世界」の比率が同程度となった回でもありました。告知の段階で課題となっていた情報格差は、聴者と聾者それぞれに定員を設け、聾者の締切日を遅くしたことで今回は解決しました。
 当日の室内には少し緊張した雰囲気がありましたが、身近な題材を使ったゲーム感覚の導入部(手話通訳あり)を通して、「対話」や「境界」についての共通意識が徐々にひらかれ、聾聴を越えて空気がほぐれていく様子が実感できました。

⇒導入部で提示した「問い」は以下2つ。
①緑葉の群生写真に「境界線を引く」(写真)

②国民的おやつ「きのこの山」と「たけのこの里」。どちらかを選び理由を説明する。
(写真①)では植物の緑葉が画面いっぱいに重なり合う写真を前に、参加者が自由に「1本の境界線」を引く実験をしました。問いに「正解」はなく(植物学的にはあるかもしれない)、引いた人の数だけ境界線の場所があるという事実を共有し、世界を捉える視点の多様性を認識しました。

(写真②)きのこ、たけのこ?
(写真②)きのこ、たけのこ?

(写真②)は国民的おやつ「きのこの山」「たけのこの里」を使いました。まずは「好き/嫌い」を問う単純な二者選択の質問から、徐々に選択肢を増やして内容を複雑化させながら、世界の「分け方」について考えてみました。「好き嫌い」のような単純な二者選択はコミュニケーションのきっかけになりますが、同時にコミュニティを単純化させ分断や対立も生みやすいと考えます。身近なお菓子を実際に食べながら聾聴関係なく楽しく語り合う経験は、無意識のうちに「音のある│ない」世界を自由に行き来する感覚も共有します。

 質問の最後には最初の二者選択からは想定されなかった「第3の選択肢」を登場させ、世界をさらに一歩進めて考えてみる可能性を示唆しました。

手元のホワイトボードが発言、紙はSNSのように。
手元のホワイトボードが発言、紙はSNSのように。

【対話(音声、手話、音声)のテーマとルールについて】

【テーマ】
事前にメンバーがあらかじめ言葉を出し合って「テーマくじ」を準備しました。当日はメンバー全員がくじを引き選んだ3つのテーマから、さらに参加者が「多数決」で選びました。
⇒選ばれたテーマ「”言葉にならないこと”を言葉にすることは可能か?」


【対話のルール】

手話通訳希望者は、話す前に「通訳希望」と書かれた紙コップを自分の手前に置くこと。
・手元のホワイトボードには「発言」を、机上の紙にはみんなと「共有したい」トピックや感想メモ等を随時自由に書くこと。

※TwitterとFacebookのような違い。

 【補足】子ども哲学対話で使用するコミュニティボールも準備しましたが、今回は使用しませんでした。実際に対話が始まると発言権には若干の偏りもありましたが、手話や音声だけでなく筆談や絵で補足することも可能でしたので、参加者全員が自身の考えを対話に載せることが出来たのではないかと思いました。

 当初はデジタル機材の使用(音声アプリ、プロジェクター等)も検討しましたが、この研究会の最大の目的はシステム開発ではなく、芸術の視点から非言語対話の可能性を探るものなのでアナログ筆談を選択しました。「対話の時間」には言葉の「情報だけ」ではなく、「書く身体」や「文字や図そのものの色、かたち」などデジタル筆談よりも非言語情報が伝わりやすく、手話や音声言語につながる身体感覚が確保されると判断したからです。また他者の意見と自分の意見を比較したりつなげること、時間を遡ったり訂正することも容易です。対話のリズムや雰囲気も柔らかくなりますので、10名程度の対話には適したかたちでした。
手話(通訳)、音声、文字が飛び交う「対話の時間」
手話(通訳)、音声、文字が飛び交う「対話の時間」

【対話の時間】
テーマ: 

”言葉にならないこと”を言葉にすることは可能か?

参加者が多数決で選んだテーマだったので、予想以上にスムーズに対話の時間に入ることができました。進行役は手話通訳を兼ねたメンバー・米内山陽子を中心に、雫境、ササマユウコ、3人のメンバーの通常の対話を外に「ひらく」意識で進めていきました。

 対話は前半の感想から始まり、実際にお菓子を食べながら味覚や視覚を中心に五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)の捉え方そのものを問い直すような意見もしばしば出ました。対話のコミュニケーションツールは音声×手話×筆談が飛び交う状態でしたが混乱はなく、むしろ多角的で生き生きとした時間が生まれていきました。
 後半に入ると、メンバーの米内山が「自分が見た満月の美しさを伝えようと撮ったスマホの写真がまったく別物になってしまった」エピソードを実際に写真を見せながら披露したことから、対話の軸は「感動」を共有する方法やその難しさ、そもそも人はなぜ他者と感動を分かち合いたいと思うのか?「伝える」「伝わる」とは何かというテーマの本質が語られていきました。
 時に五感が混ざり合うような、言葉では到底表しきれない深淵で複雑な何か。それは聾聴を越えて共通する「言葉にはならないこと」です。例えば感情がむき出しになる「喧嘩」。手話同士の喧嘩、手話と音声の伝達方法の違いが際立つ親子喧嘩は、全身で伝えよう、わかってもらおうとする究極のコミュニケーションです。その時、言葉と身体と感情はひとつになる。それはとても人間らしい対話です。

 語彙が見つからないから「言葉にできない」のではなく、言葉を越えるから「言葉にならない」。その「何か足りない」と気づく感覚を補い、分かち合う対話のひとつに芸術があるのかもしれません。
 ちなみに「対話」の意味を辞書で引くと「向かい合って話すこと」としか書かれていないことに驚きます。考えてみれば「見る言語」である「手話」でのコミュニケーションは「対話」そのものとも言えます。むしろ聴者同士の音声言語のみの「対話」は本当に相手と向き合っていると言えるでしょうか。

「言葉にならないこと」を言葉にする
「言葉にならないこと」を言葉にする

 人と人の間に引かれる境界線は条件によって変わります。しかもそれは糸のように一本の線の場合もあれば、帯のように幅がありグラデーションの場合もある。この研究会は「境界」が大テーマですが、境界線を「帯」と捉え(雫境は境域と呼んでいます)、そこにメンバーが「集う」ことで生まれる豊かな世界の共有を目的としています。
 手話・音声・文字が飛び交う「対話の時間」は、スマホやPCでのやり取りが可能となった現代においてはむしろ面倒くさいことなのかもしれません。しかしこの研究会が稀有な場だと思うのは、メンバー(雫境、米内山陽子、ササマユウコ)にはそれぞれ自分が担うべき役割があり、三者がコレクティブに動かなければ場が回らないことです。助け合いとも少し違う、「響き合う」という感覚が生まれます。そして今回はいつもの3人の対話を外にひらく実験でもありました。参加者から頂いた感想の中には「安心して発言できた。楽しかった」とありますが、確かに深い対話が生まれやすいリラックスした場だったと思います。なぜならプロジェクト名には「聾CODA聴」を掲げていますが、メンバー間ではすでにその境界線は意識していないからです。

 「手話/音声」が混ざり合う豊かな時間を異言語コミュニケーションとして捉えなおすこと。音のある│なしで人を分けることは、言語やコミュニケーション手段の「違い」を意識することだとあらためて思うのでした。

(アートミーツケア学会会員
  ササマユウコ/聴・サウンドスケープ)

〇次回予定○

3月30日(月)午後。言葉による「対話の時間」を一歩広げて、音のある|ない世界の「時間と空間」の捉え方を、実際に身体を使いながら行ったり来たりしてみたいと思います
※詳細告知は2月中旬頃になります。

【参加者のメモから】(一部抜粋)

テーマ「”言葉にならないこと”を言葉にすることは可能か?」

・言い尽くせない?言い足りない?ボキャブラリーが追いつかない?

・言葉にならないものとは?

・「伝えたい」ものをどう伝えるか。

・「言葉にならない」=足りていない部分。言い過ぎる。

・わたしが言う”かわいい”と他の人が言う”かわいい”は違う(かも)。

「誰かと共有すること」と「言葉にして伝える」ことは似てるのかも?

・言葉にできない・・・感じている気持ちを言葉に表せない、と思うことが多い。

・言葉はいつも足りない。言い過ぎても足りない。現しきれない。

・「モヤモヤ」に合った言葉が見つからない。「モヤモヤ」を「言葉」にする機械がほしい。

・「言葉にならないこと」を「言葉」にするとズレが生じる。あらためて「手話」が素晴らしい言語だと気づいた。日本語だと言いたいことが出てこないのに、手話だと話したいことが色々でてくる。

・表現や動きも「言葉」かな。

【伝える、共感するとは?】

自分は「孤独」であるという前提があるので、共感されると嬉しい。

・何か足りない⇒この繰り返しが会話や対話を続けさせるのでは?

・自分が思った、感じたことを、相手はどう感じるのか。ギャップやズレは必ずある。

・感情

・聾者と聴者の喧嘩、聾者同士の喧嘩

・「満月の美しさ」をわかちあいたい。なぜ?どうやって?⇒でも本当に共有できる?
 ⇒「I Love you」を「月がきれいですね」と訳したのは夏目漱石。好きな人と気持ちを分かち合う。記憶を共有する。

【五感】

・そもそも五感という分け方

・白いきのこの山は「どうせただのホワイトチョコでしょ?」と思って興味を持たなかった。しかしレモネード味と知って急に興味が沸いた。食べたら美味しかった。「情報」という「言葉」に惑わされた。

・青いカレー

・目で見た満月(リアル)と写真(イメージ)の違い

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