はじめに
「ろう者の音楽」を世に問い話題となったアート・ドキュメンタリー『LISTEN リッスン』(共同監督:雫境、牧原依里)の公開から早7年。牧原依里監督の新作『田中家』が恵比寿映像祭2023プログラム「東京国際ろう映画祭 視覚の知性2023」の中で上映されました(於:東京都写真美術館)。この作品はコロナ禍の東京国際ろう映画祭2021で公開され、チケットが即完売となる注目作でした。
以下は、当日上映後の監督トークをふりかえりながらの鑑賞記録です。映画の解説については監督本人による動画(東京国際ろう映画祭2021)をご紹介します。
リアルな身体が語るもの
この作品で描かれるのは「ケアする/される」家族の物語だ。登場人物の関係性も明かされぬまま、カメラは静かに「田中家」のケアをめぐる日常を捉え始める。長回し(カットせずにカメラを回す手法)の連続は、作品全体にピンと張りつめた一本の糸のような緊張感を生む。
音楽的な編集リズムが印象的だった前作『LISTENリッスン』とは対照的に、途切れることのない無音の通奏がきこえてくる。それが「哀しみ」なのか「諦め」なのか、もしくは「希望」なのか言葉にならない。主人公の心の描写は最小限に抑えられている。
もしかしたら画面にある種の緊迫感を感じてしまうのは聴者だけではないか、と途中から気づく。私は慌てて入口でもらった耳栓を取り出し、耳の穴をふさいだ。この耳栓で「無音の世界」が得られるわけではないことは『LISTEN リッスン』で経験済みだが、監督や主人公が生きる「ろう者の世界」に身を置くような意識の切り替えが出来る。耳栓をすると、それまで気づかなかった登場人物たちの言葉にならない「内なる言葉」がきこえてくるようだ。
だから「無音」や「長回し」を、緊張感を生むための「映像の技法」として観ると、聴者は作品の本質を見誤る。これは聴者との文化の違いであり、監督が意図した「演出」ではないことを思い出さなければならない。多用された「長回しの時間」は、ろう者が日常的に体感している時間だと牧原は話していた。この映画が「無音」である理由は言うまでもない。『田中家』で描かれる時間や空間は「ろう者の世界」である。そこに緊張感を感じたとしたらそれは自分が聴者だからであり、ろう者が生きる”無音の世界”に突然放り込まれたからに他ならない。
牧原は、この作品には『LISTEN リッスン』と地続きの、ろう者の「(文化的)身体」へのまなざしがあると話していた。目を中心に生きるろう者にとっての「身体」は、「手話」という彼らの言語と不可分であり、時には「声」のような役割を担う。そのことは『LISTEN リッスン』でも明らかにされていたし、『田中家』でも描かれたのは身体からにじみ出る言葉にならない声、内なる言葉だったと思う。
さらにこの作品が興味深いのは、「聴者=マジョリティ」である兄の身体が病を通して「ケアされる身体=マイノリティ」に変化することだ。そしてそこから始まる家族のあらたな関係性を見つめる物語でもあった。聴者/難聴者/ろう者、マジョリティ/マイノリティ、障害のある/ないを決めている身体の境界線は実はとても曖昧だということに気づかされる。「ケアする/される関係性」は、高齢社会の今はどの家族にも生まれ得る。身体と身体が反発し合い、支え合い、寄り添いながら関係性が溶け合っていくプロセスは興味深い。「きこえる/きこえない」によって分断されていた姉妹の身体も、兄の「ケアされる身体」を媒体につながっていく。日常とは身体的時間の連続である。
ここで描かれるケアをめぐる身体は非常にリアルだ。そこには牧原自身の体験が反映されていると知って、この作品そのものの意味や奥行が一気に深まったと思う。俳優たちのリアルな身体が紡ぐ淡々とした日常の繰り返しに、しだいに惹き込まれていく。
結局、身体の基本は生まれた時から変わらない。食べて、排せつして、寝ることの繰り返しだ。それはろう者/聴者に関わらず、人間が「生きている」ことの基本でもある。
家族とは何か
牧原監督によれば、この映画を「恋愛映画」と受け止める人が多いことが意外だったという。確かにケアされる人となった兄をめぐる姉妹の関係性には、観る側の様々なイメージが掻き立てられる。そこに何を想像するかは置かれた環境や経験によっても違ってくるだろう。
監督自身によれば、この映画のテーマは「家族とは何か」であり、それは詰まるところ「人間とは何か」を問うことに他ならないという。ケアする/される関係性の物語は、普遍的な「愛」について考えることでもある。それは牧原が自らの暮らしの中で直面している「問い」そのものなのだろう。時おり登場する母親(ろう者)の率直な物言いや、主人公との印象的な長回しのシーンでは、母子の無遠慮な関係性やろう者が受けていた”教育差別”の問題も描かれている。母親が今も社会でどのような「扱い」を受けているのかも、少ない会話/手話の中から読み解くことができる。
聴者である自身もこの母子の場面が心に響くのは、親子であっても世代差ゆえの「わかりあえなさ」が身に覚えのあるものだからだ。それは娘としても母親としても変わらない。家族なのに「わかりあえない」もどかしさは、きこえる/きこえないに限らず、人間の普遍的なテーマのひとつだろう。なぜならこの世には血縁の「親」が存在しない人は存在しないからである。
そして前述したように高齢化社会において、どの家族にも訪れるのが「ケア」の問題だ。「老いる」ことはある意味で人を子どもに戻し、「身体」は年齢と共にさまざまな障害があらわれる運命にある。実際、私の母の耳は高齢化難聴で補聴器を使わなければ何もきこえない。自分の耳もいずれきこえなくなるのかもしれない。それは誰にも判らない。予期せぬ身体の変化は、家族との関係性に変化をもたらすのは当然だろう。家族とは身体の関係性だとも言える。
言葉にできない哀しみや諦めとも似て、本人も知らぬ間に心の澱が溜まることもある。反対に、変化する身体によってパワーバランスや不均衡な関係性が是正され、家族に「調和」を生む場合もあるだろうと思う。この映画で描かれているのは後者である。その調和を「愛」と呼んでも良いのかもしれない。
自分らしくあること
ろう者のオンガクを描いた前作につづき、今作でも牧原監督が提示しているのは「(ろう者が)自分らしく在ること」だ。きっちりと練り上げた脚本を「演技」として再現するのではなく、絵コンテと直観性を頼りにその場で俳優たちと繰り返し練習し、場面を身体に染み込ませてから撮影に臨んだという。あらかじめ決まった時間をなぞるのではなく、監督さえもまだ見ぬイメージ(映像)を探りあてるような手法だ。一種の「ワークショップ」のような時間の積み重ねが目指すのは、俳優が「その人」になりきった身体だという。何よりも、手話を第一言語とする人たちにとって、身体のリアリティがそのまま台詞のリアリティに直結する理由もあるだろう。
特に「ケア」の場面では「演技しない演技」が生むリアリティが作品の質を決めている。しかしそのリアリティはドキュメンタリーの手触りとも違う。『田中家』は繊細で抽象的な余白を残した実験的な映像作品とも受け止められる。内実をみれば、予算100万円(文化庁30万、持ち出し70万円)と非常に低予算の撮影条件から生まれた「苦肉の策」が創造性につながった好例とも言える。撮影場所がミニマルな「ウチとソト」に限定されたことで、日常の積み重ねを象徴するような心理的な背景が生まれていた。時折はさみこまれる新幹線のシーンも横の時間軸を効果的に生みだしていた。現場で生まれる偶然性や即興性を逃さない直観力こそが、この監督の最大の強みであり魅力だろうと思う。
現在はさまざまな芸術分野でも活躍する牧原だが、なぜ映画を撮り続けるのか。「ただ歩いている人が映る、そこに人間の存在が生まれるのが映画ならではの魅力」だと語っていた。ハリウッド映画の「わかりやすさ」しか知らなかった牧原が衝撃を受けたというミヒャエル・ハネケ監督をはじめ、エンターテイメントとは一線を画した映画作家たちの表現が好きだという。牧原も安易に「わかりやすさ」を求めず、観るものが能動的に「問い」を生むような、自身の作家性を真摯に追い求めている。何よりもまず彼女が自分らしくあるために、自らが生きる無音の世界から映画を撮り続けている。手話を母語にデフ・ファミリーで育ち、小学校の低学年からは聴者の学校に通った(インテグレートした)経験をもつ牧原は、マジョリティ文化に囲まれながらもブレることなく、独自の「視覚の知性」を育んできた。
その彼女が次回のテーマに据えているのは「聴者とは何か」だという。舞台上の彼女がそう言った瞬間、客席の(おそらく聴者たちから)少しざわめくような気配を感じた。はたして彼女の鋭い感性やまなざしは、私たち聴者の世界をどのように描くのだろう。
少しどきどきしながら、楽しみにしている。
※「田中家」(牧原依里監督)は社会福祉法人トット基金が助成を受けた文化庁障害者等による文化芸術活動推進事業「育成×手話×芸術」の一環で作成されました。
※批評の性質から文中は敬称を略しています。何卒ご了承ください。
筆者:ササマユウコ(音楽家、芸術教育デザイン室CONNECT/コネクト代表)
東日本大震災を機に、70年代にR.M.シェーファーが提示した『音楽、サウンドスケープ、社会福祉』の実践研究を展開している。2016年『LISTENリッスン』公開時の監督トーク、2020年エルシステマ・ジャパンの『LISTENリッスン』上映トーク、2021年に東京芸術劇場の社会共生セミナーでは『もし世界中の人がろう者だったら、どんなかたちのオンガクが生まれていた?』に登壇。牧原依里、雫境との『オンガク』をめぐる対話を続けている。