【鑑賞レポ・前編】東京芸術劇場ボンクリ『音のない”オンガク”の部屋』

 1か月以上にわたる緊急事態宣言が9月末に解除された東京。その最初の週末だった10月2日(土)の東京芸術劇場では、今年で五回目となる現代音楽の祭典ボンクリが開催されました。
 そのプログラムの中で上演されたパフォーマンス「音のない”オンガク”の部屋」は、先月18日にオンライン開催された社会共生セミナー・トークセッションもし世界中の人がろう者だったら、どんな形のオンガクが生まれた?(登壇:牧原依里、雫境、ササマユウコ)の関連企画でしたので、ここでは聴者(ササマユウコ)から捉えた「聾者のオンガク」について前半は感想を交えて、後半では演出した雫境さん、牧原依里さんへのメール・インタビューの内容をご紹介していきます。
また、9月18日のトークセッション関連記事はこちらからご覧ください。
 ※尚、公共の場では「ろう者」と表記されますが、個人的に「聾」の字が好きなのでこちらを使用します。ご了承ください。


はじまりについて【鑑賞レポ・前編】

出演:佐沢静枝、那須映里、西脇将伍  共同演出:雫境、牧原依里
耳から入る音そのものの存在を知らない部屋です。
 耳で世界を捉える人が多数という中で、音楽は耳だけではなく、目や皮膚、骨、内臓などの身体にも影響しています。この部屋では「見る」だけで音楽のようなものを感じてみて下さい。

※出演者はネイティブ・サイナー(手話が第一言語)で、声質ならぬ「手質」の魅力で選ばれたそうです。

鳴り響くオンガク

 「音のない”オンガク”の部屋」は、聾者たちが舞台の床を激しく踏み鳴らす「足音」から始まりました。といっても彼らの世界には「音」がありませんから、床をふるわせた先にたまたま「音」が生まれたのです。聴者が「音を鳴らすために」床を踏むのとは身体の動機が違う。しかし両者の世界は同じように鳴り響くので、聴者は聾者のオンガクも「同じだ」と早合点をしがちです。
 ここで忘れてならないのは、彼らの世界には「音がない」ということです。そのことを常に想像しないと聾者のオンガクはきこえてこないかもしれません。
聴者が声を出すように、聾者は身体で世界に触れ、そして震わせます。誰かを振りむかせるために肩をたたき、机をたたき、床を踏み鳴らす。作品の各シーンに散りばめられた身体行為には、聾文化ならではの「意味」があるのです。

 それが「オンガク」として提示される時、行為からはあえて「意味」がそぎ落とされ、ひとつの「音」のように扱われていきます。三人のパフォーマーたちの関係性の変化、手が描く「線」のメロディ、「間」が生むリズム等が、ある時は即興的な時間と空間の中で紡ぎだされていく。聴者は「目できく」ように自らの知覚を捉え直して、そのオンガクを感じ取るのです。
 例えばクラシック音楽の”知識”のように、聾者が使う日本手話の「文法」を知っている方がオンガクをより深く楽しめるだろうと思います。一方で何も知らなくても、聾者が「オンガク」として提示する時間や空間を「きく」こと、感じ取ることはもちろん可能です。音楽とはこうである、という思い込みをはずし、異文化を理解する意識を持てばいいのです。
 聴者の現代音楽には「音や声の集合体(音楽作品)」を「音/声」そのものに解体し、再構築するアプローチがあります。この「音のない”オンガク”の部屋」で繰り広げられたオンガクも、同じような現代音楽的な発想がありました。聾者のオンガクと言えば「手話で歌うこと」を想像しがちな聴者にとって、これは予想外のパフォーマンスだったのではないでしょうか。
 今回の共同演出・雫境さん、牧原依里さんは聾者のオンガクを問う映画『LISTEN リッスン』の共同監督です。この映画の中で聴者にとっては一見「ダンス」に見える身体行為が、実は日本手話やその文法、さらにそこから意味を削ぎ落した「非言語の手話」で構成されている場面があります。しかし、たとえそのことを知らなくても、聾/聴を越えた鼓動や呼吸のリズム、喜怒哀楽といった身体の内側のオンガク、他者との関係性のメリハリに宿る外側のオンガクとして感じ取ることもできます。このことは、聴者は音楽(音のあるオンガク)の「何を」聴いているのか?という問いにもつながります。

 ちなみに雫境さんは2019年の秋、このパフォーマンスの前身ともいえる作品『鳴りや止みそうにない』をスタジオ「濃淡の間」で発表しています。四方が闇に囲まれた小さな空間の中で「足音」から始まるその非言語的な時間と空間は、ダンスや舞踏のロジックとも明らかに違う。その時は難解な印象がありましたが、今は「目できく」オンガクとして受け止める作品だったのだと思います。
以下は
パンフレットより抜粋(雫境さん記)・・・・

 『鳴り止みそうにない』の「鳴り」は、音的な要素が強く感じられるでしょう。けれども、私は音の概念、イメージがよくわからないのです。音でもない別の身体的な感覚で「鳴る」というものがあります。それは鎮められない怒り、ひざまずいてしまいたいぐらいの悲しみ、お腹を抱え込むような笑い、続けて欲しい心地よさなど、高低を孕んだ、音なき感情的な起伏の持続というのが私の感覚です。この『鳴り止みそうにない』は、言葉なきコトバを探す身体表現を目指す、記念すべき船出としての濃淡の作品です。人間のさまざまな意味と無意味の動作を一瞬の時間を長く伸ばしたり、一連のどれかを切り取って繋げたりしてみました。そこから何が見えるでしょうか。目の前で起こっているひと時を楽しんでいただければ幸いです。」


肩をたたくオンガク

(C)2/FaithCompany @東京芸術劇場ギャラリー2
(C)2/FaithCompany @東京芸術劇場ギャラリー2

 以上の背景を知った上で、あらためてこの作品で印象的だった「肩をたたくオンガク」をきいてみましょう。
 聾者にとって「肩をたたく」ことは、前述の通り相手を呼ぶ(ふりむかせる、自分の存在を認知させる)目的で、聴者の「声で相手(の名前)を呼ぶ」行為にあたります。この「はじまりについて」では3名のパフォーマーが
お互いの名前を呼び合うように和やかに「肩をたたく/たたかれる」シーンから始まります。それが徐々に「手の質感」が変わることで、3人の関係性も「弛緩(メリ)と緊張(ハリ)」を生みながら変化していきます。時にはハラハラするほどに張りつめた緊張状態も生まれていました。
 しかしそこに「ストーリー」はありません。この時間がどのように進んでいくのか、どこへ向かうのか、いつ終わるのか読み解けない。意味が削ぎ落された「肩をたたく/たたかれる」関係性だけの行為が、いつしか純粋な「ふるえ」や「皮膚感覚」のやりとりへと昇華されて、この時に初めて聾者のオンガクがきこえてくるのです。この即興的で先の読めないどこかスリリングな時間の質感は、演奏する身体の記憶、即興で音をやりとりするセッションと通じるものでした。


水のオンガク/風景のオンガク

2017年「聾CODA聴 境界ワークショップ研究会」より。雫境さんの水の映像を使ったプログラム(2017アートミーツケア学会青空委員会公募プロジェクト)
2017年「聾CODA聴 境界ワークショップ研究会」より。雫境さんの水の映像を使ったプログラム(2017アートミーツケア学会青空委員会公募プロジェクト)

一方で、体感的に「きこえてきた」のが自然現象や風景を写し取ったオンガクでした。舞台終了後に投影された牧原さんの無音の映像オンガクも含め、聾者が「目できく」ように捉える水や雨の様子は、この世界に生きる誰もが内側に刻んでいる共通のオンガクです。 

 走る電車内の聾者の「目と手」が流れる車窓の風景を切り取り、連続するリズムとして繰り返す時、電車の音やリズムで作られたミニマルミュージックと共通するオンガクを感じました。したたり落ちる雨粒、だんだん激しくなる横殴りの雨、、表情豊かな「手」の質感そのものにオンガクを感じる時は、美しい音を「奏でる手」のイメージが重なっていきました。

 偶然だったということですが、激しい雨のイメージは舞台前日に台風が降らせた豪雨の記憶と重なり、聾者も聴者も同じ世界をそれぞれの方法で知覚しながら生きていることを実感しました。先日のオンライントークでもご紹介しましたが、シェーファーは「水」のイメージから(きく・みる)をつなぐ独自の知覚の捉え直しをして、鳴り響く世界に「サウンドスケープ」という名前をつけました。

 雨粒が同時多発的に世界に波紋を広げ響き合っているように、聾者の音のない世界も鳴り響きながら波紋を広げている。その世界は聴者の耳にはきこえませんが「音のないオンガク」として「目できく」知覚をひらいた時に、聾者と聴者の世界はお互いに響き合っていると気づくのです。


【告知】この舞台制作のプロセスを追ったドキュメンタリーが10月23日(土)夜8時45分~9時まで、NHK Eテレ「ろうを生きる 難聴を生きる 音のないオンガク会」※字幕スーパーにて放映されます。ろう者の世界の捉え方、身体性や知覚に触れながら、音のある/ないを越えてオンガクを問う場、この世界の多様性を考える場として是非ご覧頂ければ幸いです。
 この作品はオンガクのみならず、身体芸術、福祉、社会共生等、様々な視点から考えることが出来ます。何より
聴者の現代音楽フェスに「ろう者の”オンガク”」が提示されたことは聴者の音楽の世界を拡張しただけでなく、そもそも「聾者」の存在を一度でも意識したことがあったか?という音楽人たちへの問いかけにもなります。もちろんそれは決して「音のあるオンガク」を否定するものではありません。聾者のオンガクが聴者の音楽のすぐ隣に存在して、響き合っていることに気づくことの意義は、自分たちの音楽ロジックに聾者を引き込むのではなく、彼らのオンガクを真摯に「きく」姿勢が生まれることにあります。
 聴者が主導する「手話歌」がしばしば物議を醸す理由もここにあります。マジョリティ/マイノリティの意識、両者のパワーバランス、何より日本手話や聾文化へのリスペクトがあったかどうか。そして聴者は全身の感覚をひらいて、彼らのオンガクを「目できく」知覚を持っていたかどうか。
 それは同時に「私たちはオンガクの”何を”きいているのか、それは音なのか?」という問いを生む姿勢にもつながっていくのでした。